2006年05月03日

村上龍といっしょに図書館で借りた
阿部和重『インディビジュアル・プロジェクション』(新潮社 ISBN : 4-10-418001-7)の感想文。

・・・

刊行は1997年。
『五分後の世界』の三年後の作品。

インターネットは、まだない。
もちろん物語の中にもネットは出てこない。

そういう意味ではとっても牧歌的な時代の小説だ。

しかし
この本は、
来るべきネット時代を予見したかのように
「情報が錯綜する時代」や
「正しい情報収集が困難な状況」のことを
描いている。

舞台となる「渋谷」は、多すぎる情報の象徴。情報錯綜の象徴だろう。

そこで繰り広げられる、バイオレンスや諜報に満ちた「戦争」状態は、
情報錯綜時代を生き抜くことの比喩なのか。

そして
そんな世界をサバイブする最善の方法は
『みんなわたし』
という状態になることだ
と暗示的に述べられている。

これは、どういう意味だろう。
全個人の知をリンクせよ、という意味なのか。

いずれにせよ、
サバイブ感覚という面では、『五分後の世界』に通じるものが底に流れている。


情報の時代だから、身体感覚を。

脆弱な時代だから、肉体感覚を。

不安定な時代だから、サバイバル感覚を。

不信に満ちた時代だから、戦闘感覚を。


巻末の、執拗なまでの「参考文献一覧」を見ても、
この小説が単なる「渋谷バイオレンスもの」などではなく
著者の「情報・諜報・戦闘・サバイブ」への
意図や執着が感じられる。

・・・

と、ここまでがこの作品のプラスな感想。

・・・

この本を読んでいるあいだ、

ふとしたきっかけで

夏目漱石の『二百十日』を読みかえした。

(偕成社 ジュニア版日本文学名作選4 『坊ちゃん』所収 昭36刊)

(※余談ながら、この本の宮田武彦先生の挿絵が、何度見ても涙が浮かぶほど良い!)

『二百十日』という話は、分解すれば

「二人の男の阿蘇登山」というエンターテイン部分と

「庶民を圧迫する金持ちに天誅を」というメッセージ部分で成り立っている。

(後者は、主人公の男の持論という形でさりげなく繰り返し述べられる。)

そして
どちらが欠けても物足りないくらい
演出と、メッセージが、バランスよく同居している。

しかも漱石が長けているのは
そのエンターテイン・演出部分の見事さである。

会話を書けば、落語のように軽妙な掛け合いとなり、

叙景をすれば、俳諧のように心にしみる表現をする。

この「エンターテイン部分」において
『インディビジュアル・プロジェクション』は、
とても評価が分かれる作品だと思った。

(ようやく話が戻った・・・。)

・・・

例によって、読後にAmazonのカスタマーレビューを見に行った。

この作品の「メッセージ部分」に言及しているコメントは見当たらず、

だいたい「エンターテイメント部分」への評価である。

しかも大いに二分している。

1:「シブヤ・今の時代・ストリート・戦争、最高! 常盤響の表紙、最高!」という意見

2:「ストリート・バイオレンス、三流パルプ小説、ケッ!」という意見

どちらも気持ちはわかる。

ただ、冒頭に私が書いたようなことが
この本の「メッセージ部分」だとすれば、
私は
そのような「メッセージ部分」とバランスが良いのは
どのような「エンターテイン・演出」なのか、というカタチでこの作品を分析したい。

・・・

で、感想つづく。

・・・

この作品の文章は、マズい。

設定が、多少精神を病み始めている男の日記、というものだから

マズいことに文句がいいづらいのだが、

決してステキな文章じゃない。

(Amazonカスタマーも、二度読みたいと思わないって言ってたな。)

そして、舞台が渋谷だ。

そのことも、いまいちダサい。

過去の作品の評価にダサいは禁句だろう、という人がいるかもしれないが、

音楽の渋谷系が90年前後だから、

97年の渋谷が時代の先端とは思えない。

(そもそも、時代の先端を描くのにそういう水モノをネタにする必要があるのだろうか。同じ芥川賞作家のコンテンポラリー小説「蛇にピアス」や「蹴りたい背中」などとくらべて、どうか。)

偶然併読した『二百十日』と比べるのも
変な話かもしれないが
エンターテイン部分が、大ざっぱで、低レベルで、何かおもねりを感じてしまう。

時代を描くこととおもねることが混同されてる気がする。

以上ここまで、上記Amazonの「2」の意見と似た感想。

・・・

しかし、待て。

阿部和重をなめてはいけない。

そんなに一筋縄な人間のはずがない。

このイビツな文章は、「メッセージ部分」を伝えるための手段なんじゃないのか。

だいいち私、他の作品も読んだことないし。

インタビューを探してみる。

あった。『グランド・フィナーレ』芥川賞受賞のあいさつ

「そして、辞書には載っていない言葉と逆に辞書にしかのっていない言葉、その二つをうまく組み合わせていびつな文学を形作っていくという、自分なりの試みを今後もしつこく続けていきたい。」

・・・イビツ確信犯か・・・。
しかしなぜ。

愛読者によるレビュー

「ちなみにこの割り切られた二重構造こそがぼくは「インディヴィジュアル・プロジェクション」の魅力であり、現在を映した鏡でもあると思います。都会の日常生活には使い回しの純文学はもはや根ざしてないのかもしれません(というふうにぼくは新文学を感じとっているのです)。 」

美文は過去。イビツな現代にイビツな文章を。ってこと?

ふたたびインタビュー

「僕は97年からインターネットを始めたんですが、その頃って掲示板が本当に面白かったんです。なかでも興味深くチェックしていたのは新聞記事を貼り付けていくタイプの、陰謀論系のサイトだった。そこから情報を追ううちに、ネタに出来そうな記事が見つかったりもしたし、陰謀論系の知識が自然に身について、作品にも生かせました。 」

97年にネットやってたんだ。
さっき97年にネットなかったって書いちゃったよ。

さらにインタビュー

「80年代までは、たとえば浅田彰氏のように、全ジャンルを見渡す『知』が可能でした。ところが90年代はインターネットによって情報が一気に細分化し、その結果ジャンルの内部も分断され、網羅不能になってしまった。これが高度情報化社会の皮肉な実相なんですよ」

「僕の予言ではなく、情報が広く速やかに行き渡るネット社会が、虚構と現実の関係を言い当てやすくした。その変化にこそ、着眼すべきでしょう」。

「とくにロリコン嗜好(しこう)は、いわゆるオタク産業の関心とダブりつつ、しかし絶対に擁護されない社会の禁忌。小説でそれを書けば悪を追求する作家と見られてしまうけれど、真っ黒な悪を書くつもりはない。人間は常にグレーゾーンにいる。その中の振幅を表現したいだけ」

現代を表現するためのイビツな文章。
現代の象徴としての、「最後の禁忌」。

このイビツな「エンターテイン表現」は、「メッセージ部分」を伝えるための
計略だったというわけですね。

わかりました。

・・・

わかったうえでの私の感想つづく。

その1)

現代というグレーな時代を、

きれいな母語を使って書くことは、果たしてできない相談なのだろうか。

美しい祖国語の表現は消えていくのか。

私は単なる保守老人か。

その2)

それにしてもこの作家の(否この作品の)

身体表現とストリート表現は、ダサい。

アタマの大きな人が書いた不良小説の匂いが、とてもステキじゃない。

この問題は奥が深そうだ。
村上龍や都知事や熊野路地の本から読み直さなきゃいけないかな。

文学とストリート、
文学青年と不良、 
原稿用紙と身体感覚、
ペンとケンカ。

だれかわかりやすく解説してくれてないかな。
柄谷行人とか。

そういえば以前読んだ
高橋源一郎の文章読本に、本当の「身体文章」がのってた気がする。
(『一億三千万人のための小説教室』岩波新書 ISBN: 4004307864 )

小説家でも
文学家でも
作家でもない人が書いた
本当のストリートアンダーグラウンドサブカルチャー表現が。


投稿者 vacant : 2006年05月03日 00:56 | トラックバック
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