2012年11月18日

読売新聞2012年10月14日(日)朝刊 書評欄より引用


『茂吉 幻の歌集「萬軍」』 秋葉四郎編著

評・三浦佑之(古代文学研究者・立正大教授)


戦争讃歌 どう読むか

 ここで私が取り上げる必要があるかどうか、しばらく思い悩んだ。楽しい読書にはならないかもしれないが、読んでほしいので書く。

 日本人が戦いに突っ走り高揚していた時代、斎藤茂吉は昂りながら戦争讃歌を次々に詠み続けた。その中から自ら選んで一冊にまとめた歌集『萬軍』は、原稿を出版社に渡したところで8月15日を迎える。その本来なら忘れ去られるはずの歌集が、戦後、一度はこっそりと一度は遺族の許可を得て、謄写版と活字版で刊行されている。今回は、自筆原稿を所持する編著者が完全版として出したのだが、そこには誤りが多く出版経緯の不明な前二回の出版への義憤、戦争加担者としてなされた茂吉への一方的な批判に対する苛立ち、茂吉短歌への敬愛など複雑な感情が入り交じる。言うまでもなく近代短歌史を考える上で貴重な出版となる本書は、『萬軍』成立に至る茂吉の戦争観や戦後の茂吉批判に対する反駁など本歌集をめぐる解説と、所載歌の解釈を加えた歌集の完全翻刻とからなる二部構成で、巻末に自筆原稿の影印を付す。

 解説は茂吉に寄り添いすぎる印象があって物足りなさも感じるが、集中砲火をあびた戦後の茂吉批判に対する秋葉の嘆きは理解できる気がした。秋葉の理解を踏まえて私なりに言えば、あの時、日本人のほとんどは「茂吉」だったと思うからである。そして、たいそう気味悪く感じるのは、この自由なはずの現代においても、いつ何どきあの時と同じ情況に放り込まれるかもしれず、そうなったら知らないうちに私もあなたも「茂吉」になって、一所懸命、時代に流されているかもしれないということだ。

 ところで肝心の歌はどうか。秋葉は戦争歌の頂点と評価するが、『赤光』の代表作「はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑に」に比べると、「大きなる敵こそよけれ勝さびにこのたたかひを貫かむとす」はなんと深みのないことよ、と思うばかりであった。

◇あきば・しろう=1937年、千葉県生まれ。歌人。歌集に『街樹』『極光(オーロラ)』など。

岩波書店 2100円


2012年11月17日

読売新聞2012年9月23日(日)朝刊 書評欄より引用


『政党支配の終焉』 マウロ・カリーゼ著

評・細谷雄一(国際政治学者・慶応大教授)


日伊の近似した道のり

 まるで鏡を見ているかのようだ。冷戦後のイタリアの政党政治で起こった変化は、日本でのそれと符合している。双子のようだ。

 冷戦構造のなかで、イタリアでは中道右派のキリスト教民主党による長期政権が続いた。ところが冷戦が終わるとこの政党は、日本の自民党の退潮と符合するように、勢いを失っていった。1990年代のイタリアでは小選挙区制が導入され、イギリスのウェストミンスター・モデルの二大政党制が目指された。まさに、日本と近似した道のりを歩んだ。

 本書の著者、マウロ・カリーゼは、イタリアを代表する政治学者であり、政党研究の権威でもある。90年代には、「オリーブの木」による左派連立政権成立に際するブレーンともなっていた。このカリーゼが本書で検討しているのは、全ての主要な民主主義国で進展している、政治家の「人格」が表出される「大統領制化」であり、首相権力の強化、すなわち政党の「人格化(パーソナリゼーション)」である。

 もはや、合理性に基づいた近代的組織としての政党は解体した。政党は、指導者個人のためのパーソナルな機関となってしまった。それは、ベルルスコーニ元首相の「フォルツァ・イタリア」であり、最近の日本では橋下徹大阪市長の「日本維新の会」もそれに含まれるだろう。著者の比喩を用いれば、イタリアの政党は「粘土の足をもつ巨人」に成り下がってしまったのだ。なんとも弱々しい。そして、「イデオロギー」ではなく、「個別主義的な利益」がいまの指導者と支持者の紐帯となっているのだ。

 著者のカリーゼは、まるで死体解剖をするように、イタリアにおける「恐竜」としての大政党の衰退を冷徹に分析している。その隙間に、ベルルスコーニのような新しいタイプの指導者と政党が登場した。民主主義はどこに行くのか。政党支配の衰退は、あらゆる民主主義国の抱える問題といえる。日本もまた、その問題を克服しなければならない。村上信一郎訳。

◇Mauro Calise=1951年生まれ。ナポリ・フェデリーコ二世大学教授。

法政大学出版局 3000円


2012年11月16日

読売新聞2012年9月23日(日)朝刊 書評欄より引用


『群れはなぜ同じ方向を目指すのか?』 レン・フィッシャー著

評・池谷裕二(脳研究者 東京大准教授)


集団が生み出す正邪

 集団の原理とその正邪を語る本である。前半はミツバチやアリなどの動物、後半はヒトについて多くのページが割かれる。

 群れは単純な原理で生まれる。個々の構成員が〈1〉隣に近づく、〈2〉ただし接触しない、〈3〉隣と同じ方角に移動する。この3つの傾向さえあれば、イナゴやハチに見られる複雑な群体運動は、コンピューターで正確に再現できる。

 私たちが混んだ街を移動するときも同じ原理で動いていると知ったら驚くだろうか。人は自分を「高度な知能を誇る生物」と希望的に驕るナルシストだが、実のところ、昆虫の行動パターンと差異はない。人も自然の一部である以上、行動様式は無意識に自然の摂理に従うのだ。

 神経細胞が集合して脳を作ると、個々の神経細胞の機能からは予想できなかった「知能」が宿る。動物が群れる目的も「群知能」を活用するためだ。個々は決められた少数のルールに則
って行動するだけだが、個体の能力をはるかに凌駕する「知恵」が生まれ、結果として集団の性能が向上する。もちろんヒトも同じだ。物の個数を直感で言い当てるシンプルな試験でさえ、全員の平均値は驚くほど精確である。

 人混みを通り抜けるには。渋滞や危機から脱出するには。近道を見つけるには。本書はこうした実践的課題にも群集力学的に解答を示す。

 集団は諸刃の剣にもなる。ときに集団は鈍感化する。火災警報が鳴っても逃げないという経験は誰にでもあるだろう。逆に敏感になりすぎ、群衆パニックに至ることもある。

 現代ではメールやネットからも群知能が芽生える。新たな世論を生み、政治や民意をも動かす。中国の反日デモも群集力学の新型臨界現象の好例だろう。個人対個人では「いい奴(やつ)」でも、集団になると別次元の「意志」に豹変する。この自発プロセスに強靱なリーダーは不要だ。

 アラブの春や東電の原発対応も含め、時事沙汰に照らして読んでも勉強になる。松浦俊輔訳。

◇Len Fisher=1942年生まれ。英ブリストル大学客員研究員。著書に『魂の重さは何グラム?』など。

白揚社 2400円