2007年03月14日

ゆえあって、
赤瀬川原平翁の『老人力』を読んでいる。

以下は、
老人力と「趣味」について書かれた一文。


 「それに、歳をとると、どうしても人生が見えてくる。つまり有限の先が見えてくるわけで、その有限世界をどう過すかという問題になってくる。
 若いころは人生の先がまだ遠くて、有限性がわかりにくい、だから自分の人生への切実さが少く、思想の世界のために自分の人生を寄付できるとも考えてしまう。じっさいにそれを実行に移して、思想のために自分の人生を棒に振る人もいる。振り切ってしまえれば、それはそれで自分の人生を楽しんだのだということもできるけど、ちょっと苦しい。やはり自分の人生というときの、「自分」がちょっと希薄なのだ。
 で、棒に振るにしろ振らないにしろ、歳をとると、自分というのが濃厚になる。他の誰でもない『自分』の人生という有限時間が確実なものとして、一本の棒のように認識されてくるのだ。
 趣味はそこからだろう。自分が楽しくなければしょうがないわけだから、世の中にコミットするもしないも、それも趣味のうち、といえるようになる。つまり思想が趣味の人もいるだろうし、政治が趣味の人もいるだろうし、運動が趣味の人もいるだろう。思想思想という言葉の裏に、それぞれみんな『自分』の人生を引きずっているのが、本人以上に見えてくるのだ。」

(赤瀬川原平『老人力全一冊』ちくま文庫 より引用)


なんというか、
なんであろう。
この境地、とでも言ったものか。

ある種、
これは
デタッチメント側からの、達観した声明文

受け止めるべきものだろうか。


人は老いて、再びデタッチメントの境地に達するのか。


前回の養老先生のハナシと
あわせて考えると、
まさに面白い。

世間から逃げてきた若者が、
やっぱり世間を知ろうと大人になり、
そして
老いて再び
世間はもうわかったそろそろ自由にさせてくれ
という境地に達する。

ということか。


養老先生がもがいたように、

人はみな、そのルートをたどって
人生を歩んでいくものなのか。

2007年03月09日

 「あるとき、中国人の留学生が、東京から京都までドライブした。途中でヒッチハイクをしているドイツ人の学生を乗せました。この中国人留学生が書いた随筆があります。その文章を読みました。京都に到着して、車を降りるときに、ドイツ人学生がいいます。『日本人は生きられませんからね。』中国人である著者は、それに賛成する。これが中国人とドイツ人の結論です。
 スリランカのお坊さんに先日会った。前にそう書きました。どういう文脈か忘れましたけど、このお坊さんが同じことをいいましたよ。『日本人は生きてませんから』って。これが『国際世論』のようですよ。いったいなんのことか、それを理解していないのは、日本人だけのようですね。」


 「世間で生きてる人に、『生きている』ことの国際的意味を説明しても、おそらくダメなんです。だって世間で生きるってことが、その代用なんですから。いうなれば、『個人が生きる』ことが、『世間で生きる』ことに置き換えられているんですよ、日本では。それに対して、外国人が『日本人は生きてない』、『日本には普遍性がない』っていうんです。外国は日本の世間じゃありませんからね。
 『じゃあ日本人の生き方は間違ってるのか』。そんなこと、私は思ってませんよ。」


「中国なら人を表すのに『人』という漢字ひとつで十分です。日本に入ると、それが『人間』になっちゃうんですからね。『人と人の間』、『人間』という表現は中国語では世間のことです。『間』は人じゃない。それは『世界の常識』でしょうが。なのに人をあえて『人 - 間』にしちゃう。それが日本の世間です。ヒトと世間とが同じ言葉になっているって、『ものすごいこと』だと思いませんか。」


「日本で育ち、教育を受けるということは、最初から世間の人になったということです。あたりまえですが、日本ではまず『人間として』生まれるわけです。『人として』じゃないんですよ。」


 「同じ努力・辛抱・根性でも、『世間で生きる』ときと、『自分流に生きる』ときとで、相手がまったく違うんですよ。ストレスの型に、それがいちばんはっきり出ます。日本ではストレスは胃潰瘍を起こす、アメリカでは心筋梗塞を起こす。」

 「アメリカは機能主義、能力主義だといわれます。個人でいうなら、「できなきゃダメ」なんですよ。だからイチローで松井秀喜なんでしょ。(中略)そのタイプのストレスは心筋梗塞を起こすんです。他人と比較して、自分のほうがよくなきゃいけないんですから。
 日本の世間だって、仕事ができなきゃダメです。でもそれは、お前がちゃんとやらないと、ほかの人に迷惑がかかるぞ、って意味でしょ。じつは仕事自体より『うまく』やることのほうが大切なんです。(中略)『ちゃんとまともに働いて、あのていどなんだから、それはそれで仕方がない』。そう思ってもらえます。」


 「こうして日本では仲間、つまり世間がまず最初に来ます。『自分がやりたいことがまず優先』じゃないんです。」

 「日本人が人生論を論じるむずかしさは、ここじゃないでしょうか。世間をどう見るか、なんです。自分はこうだ、じゃ済まないわけです。世間という相手のほうが、よほど大変かつ複雑なんですから。
 自分の生き方を説明するには、自分のことだけじゃなくて、世間のほうも説明しなけりゃならないんです。それをやろうとすれば、世間を『意識化』することになります。そこがいちばん面倒くさいんです。そもそも世間の約束事は『いわないこと』になっているんですからね。」


 「むずかしいでしょ、生きるって。こんな簡単なことは、ほかにないからです。動物ははじめから『生きて』います。それを籠に入れて、まったく動けないようにして、餌と水が目の前を流れてやるようにしてやる。それがブロイラーです。だれかの生活がそれに近づいたとき、見ている人から『生きてない』って表現が出るんでしょうね。(後略)」

(養老孟司 『運のつき』 マガジンハウス より引用)


・・・


 「あと半年と宣告されて、それを納得した瞬間から、自分が変わります。ですから、知ることというのは、じつは自分が変わることだと私は思うわけです。
 しかし現在では、知ることとは、自分とまったく無関係の出来事になったのではないか。私がかつて、東京大学出版会の理事長をしていたとき、いちばん売れたのが『知の技法』という本です。この本がなんで売れたのか。私は、ハタと思い当たりました。まさしく知は技法にかわったのです。」


「そういう子どもたちが二〇代になったときに、世の中で起っていることに対して、『あれはテレビの世界ですよ』と簡単に自分にいい聞かせることができた。つまり、直接関係ないよという態度をとるのが、その人たちにとって楽だからなのです。なにしろ、テレビで慣れている。現実の世界をあたかもテレビの世界として、いわば『譬え』として見ることが上手な世代だということです。
 そうした世代の学生は、気になる言い方をします。その一つが『いいんじゃないんですか』です。『その人と私は関係がないのだから、勝手にやらせておいたらいいでしょう』ということです。テレビの中で何が起っていたって、現実とは関係ないんだよ、という感じ方がここに見られます。」

「いまの若者は、自分をテレビの中の人物のように見ることができる。(中略)そうすると、外に出て人と会っているときの自分が自分で、部屋の中をぐちゃぐちゃにしたのは自分じゃないと思っているのでしょう。自由に自分のある部分を切り離しているのです。
 そういう切り離しがどうして平気でできるかというと、やはりテレビ慣れしているからだと思います。テレビの中はほとんど現実そっくりですから。」

(養老孟司 『自分は死なないと思っているヒトへ』 だいわ文庫 より引用)


・・・


ゆえあって、養老先生の本を何冊かまとめて拾い読みした。

『唯脳論』、『まともな人』以来だ。(『バカの壁』は立ち流し読み。)


いつしか
この日記のテーマのようになってしまった
「社会化」とは、

養老先生のお言葉を借りれば
「世間」化 ということになるのだろうか。


そしてそれは、私が思っているような
熱望し乞い願うべき対象などではなく、
日本人としての生来の悲しい定めなのだと
先生は仰っているようだ。


いっぽうで
戦後日本で失われていった「共同体」というものを
とても大事なものとして書かれている。


「世間」と「共同体」、
どうちがうんだろう。


養老先生によれば

共同体とは、共通の了解をできるだけ進めていきその工夫の上に成立するもの。
共同体とは「身内」であり、そのための自己犠牲をいとわないもの、

のようです。


「共同体」とは、以前書いた「コミットメント」に近いものなのだろうか。

「コミットメント」と「世間化」とは、似ているようで全然違う。

「社会のために生きる」ことと、
「社会に迎合して(馴れ合って)生きる」ことの
違いみたいなもんだ。

(あ、そうなのか。 いま、書きながら、納得した。)


養老先生は、こんなことを書いている。

「私はなんとか『自分で生きたい』んですが、この世間では、まず『世間を知らなけりゃならない』んです。
 その世間をあるていど『知る』までに、なんと六十歳を過ぎちゃったんですよ。世間を知ることは、つまりは『世間で生きる』ことでしょ。実際に生きてみなきゃ、世間のことはわからないですから。」

(養老孟司 『運のつき』 マガジンハウス より引用)

・・・・なんだか、ものすごく親近感をおぼえる一文だ。。。


たぶん養老先生は、

共同体が苦手で、早くから飛び出したのだけど、
そのため世間を知らずに大きくなり、
やっぱり世間を知りたくなって、世間に飛び込んだんだけど、
やっぱり世間はイヤだ、ということがわかって、
同時に失われていった共同体を惜しんでいる。

・・・そんな、デタッチメントとコミットメントとのあいだを永久運動している超アンビバレントな人なんじゃなかろうか。。。

・・・

「世間・共同体」 vs 「所を得ない・旅宿人」

「コミットメント」 vs 「デタッチメント」

「情状酌量」 vs 「ディスコミュニケーション」

そんな私の関心に
リンクしているハナシが多かったので
大量に引用させていただきました。

またこんど、拾い読みじゃなく、ちゃんと通読しなくちゃ。


ああ、そういえば家には、
阿部謹也の『世間とは何か』なんて新書が
積まれたままになってたな。。。


2007年03月08日

(ひとつ前からのつづき)

そんなわけで、

「汚いけど、綺麗。」という、

赤瀬川原平的な意思は

多くの芸術作品のなかに

細胞のなかのミトコンドリアのように

共通して見られる要素である

ことがわかったのだが、

例としてあげた人々の人選が、

いまいちぬるかった。


ヴェンダースや

フィッツジェラルドどころじゃない

うってつけの人を忘れていた。

ベッヒャー夫妻ですよ。

ベッヒャー夫妻


現代における、「汚いけど、綺麗。」思想の

発見者にして

体現者。


・・・


なんて別に知り合いでもないんだけど。


そんな瑣末な話をしているあいだにも

春は着実に兆しているんだろうけど。