2006年09月27日

日影を歩かないと、ちりちりと刺すような日射し。
土埃が、舞っていたかどうか実際は忘れてしまったが、
排気ガスを、巻き上げていたかどうか実際は忘れてしまったが、
広くも無い車道を、荒ぶる自動車とバイクが
精力的に走っているその喧騒は、
まるでそこでは土埃と排気ガスが舞っていたかのように、
私の記憶へと沈殿していく。

ここは田舎の町。
道の両側は土産物屋がズラリ軒を連ねて、
人々の声、声、声が聞こえる・・・
実際そんなに声が聞こえていたかどうか、
・・・あたかもそんな記憶がつくられてしまうような風景。
その中を歩いている。

知らない名前のコンビニがある。
中は、日本の田舎の、
例えば海水浴場の近くなどにある
コンビニのように
すきだらけの雰囲気だ。

レジ近くの棚に海賊版のDVDが並んでいる。
破れたジーパンを腰で履いた、
大学生男子みたいな日本人がふたり。
近所のコンビニで暇つぶししているような、
そんな足どりで、
「MI3(エムアイスリー)のDVDって、出てたっけ?」
「出てなくね?」
「買おっかな」
大量のむきだしの札束をポケットからびらびらさせて、
実際びらびらさせたかどうか、定かでないが、
そんな風に記憶している光景。

店を出る。
灼熱の路上。
日本で見れば、
広大な建築予定地かと思うような
むきだしのサッカー練習場。
土埃が、日光に焼かれる。

その傍らを歩く
この町の
この国の人々は、
そんなびらびらの札束とは無縁の生活を送ってる。

生まれた国が違うだけで、
個人としての能力に、何の違いもない
この国の人々と、われわれ。

そこに、
「通貨格差」という
インチキカードゲームのルールのような
不思議な現実があって、
われわれ、
つまり私と
海賊版ミッションインポッシブルの男二人とは、
この国で、大金持ちのような振る舞いができる。

個人としての能力に、何の違いもない。
のにだ。

・・・

しばらく経って、
そんな記憶とはぜんぜん関係なく、
『もの食う人々』(辺見 庸著 共同通信社 ISBN:4-7641-0324-9)を読んだ。

(※実際、私の旅とこの本とは、なんの共通点もない。)


東南アジアや、アフリカの、貧しい人々の話。
もう何度も見聞きして、
まるでもうすでに見知っているかのように記憶している光景。

でも、
読みながら、
自分のなかの視点が、ぐぐっとずれていくのを感じた。

自分の物差しが、
いや実際、
アタマのなかで、
定規のようなビジュアルが、ぐぐぐっと大きく動いていくイメージが見えた。

こんな世界のなかで
ぐだぐだと奈良サンにイチャモンつけている自分ってなんなんだろう。
(またそれか!)
(いや、それだけじゃなく・・・)
何もかも、
ぐじゅぐじゅと逡巡・執着・混濁・泥濘している。
(何て?)
自分はいったいなにをしてるのか。

世界を幸せにするためにがんばって絵をかいている画家をとっつかまえて。
(またそれか!)
(いや、それだけじゃなく・・・)
(そもそも幸せにするために描いているのか? 知ってんのか?)
(でも実際、彼のぬいぐるみを持って幸せそうにしている子供を見たよ。)

・・・

・・・

私にVISIONはあるか?


????


日本をもっとキレイにしたいのか?


????


・・・

・・・

そして、また私は、日々へと戻り、

そして、また私は、日々へと漬かって行く。


・・・

・・・


(・・・すごい文章だな。ヘンな勧誘されないように気をつけなきゃ(笑)。)


2006年09月22日

池澤夏樹のメルマガ『異国の客』が、ひさびさに配信されてきた。
今回がなかなかおもしろかったので、貼っておく。

自身が大好きなゴーギャンと比べて、
ピカソの絵の見方を分析している。


「ゴーギャンならば一点の絵を何時間もかけて見ることに意味がある。
絵の中にしばらく居住するという感じ。
しかしピカソの前では時間を止めてはいけない。
つまりピカソという画家はミュゼ的でないのだ。
彼の絵は時間軸に沿って見る者も運動しながら見なければならない。
なぜならば彼にあっては変化にこそ意味があるのだから。
作品Aをじっくり見て、しかる後に作品Bを見るのではなく、AからBへの移行の過程を見なければならない。

そういうことをタブローからタブローへと足を運びながら考えた。
これで見たつもりになってはいけない。
一点ずつの作品の前に立ち止まらず、次々に変わるのを切り換えながら見続ける。
全生涯に彼が描いたものをすべてスライド・ショウで見る。そういう方法はないか? 」

「 一枚の絵が始まる時、終着点は見えない。
頭の中に一つの完成されたイメージがあって、イデアとしての絵があって、それを紙やキャンバスに写す(移す)のではない。
ゴーギャンの場合はそうだったかもしれない。
タヒティで目の前にモデルがいて、周囲の色というものがあって、そこで絵筆を取る時、彼の頭の中には完成された作品が既にあったかもしれない。
いわば描くという行為は頭の中に一枚のタブローができるのを待ってようやく現実界において実行されたかもしれない。
ミケランジェロは大理石の中に閉じこめられた像を解放するつもりで彫刻を作ったという。イデアは作品に先行したわけだ。

ピカソは違う。描きながらどんどん進む。立ち止まらない。
スタートの地点ではおおよその方向がわかっているばかりだ。 」


池澤夏樹 『異国の客 Stranger In A Strange Land』 発行:Impala より引用)


2006年09月21日

村上隆主催の「GEISAI」がこんどの第10回をもって終了すると新聞に書いてあった。
以前、GEISAIのホームページで、「終了か続行か」という議論を読んで気になっていたので
記事を見て、ああ正式に結論をだしたんだな、と思った。

GEISAIは過去に2度見に行ったことがある。
東京タワーの下の古い会館で開かれた第一回めと、
東京ビッグサイトで行われた何回目かに。
(奈良サンがジャンケンしてバザールをやってたな。)

思い返せば、
1990年代半ばには、「美術なんて二度と復興することはないだろう」と思っていた。
たまに美術手帖を見て
『これは誰々の絵ではない』とかいう題名のまさに美術の末期癌のようなパロディ作品や
古色蒼然とした典型的現代美術や、自我垂れ流しコンセプチャルアート、
タミヤ模型を使った村上隆の作品や、
その他もろもろのそういった作品にうんざりしていた。
これらの作品が新しいなにか(価値?)をうみだすことはないだろう、
これから来る時代に、絵の具や粘土でなにか新しいことを表現することなんて
もうできないだろう。極端にいえば、そんなふうに思っていた。
(ビデオアートに対しても
なんだか偶然性に頼った中途半端で胡散臭いものだと感じていた。)

その思いが大きく変わったのが、
「奈良・村上」と「横浜トリエンナーレ」(とそれから直島のスタンダード展)だったと思う。
そんなようにおおまかに記憶している。
(当時NHKで偶然見た『美と出会う』という番組も印象深かった。
山根基世アナが、内藤礼と束芋を取材する番組。山根アナの飄々とした感じが良かった。あの番組また見たいなー。)

GEISAIがスタートしたのも、「ナラカミ」ブームのそのころだった。
それから10回。村上サン曰く、
「このままでは一般の公募展と変わらないものになってしまうから」
とのこと。
(正直、私もここ何回かGEISAIのことは気にしなくなっていました。)

たぶん、これからますます
世の中で「ファイン・アート」的なものの果たす役割が
大きくなってくると想像するのですが、(いきなり大きな話ですが。)
(※大前研一訳『ハイ・コンセプト』の、もろ影響。 ISBN4-8379-5666-1 三笠書房 ダニエル・ピンク著)
そのひとつの大きなきっかけをつくったGEISAIの意義は大きかったと思います。

おまけ。
「現代美術」をテーマに、ネットを見ていたら
こないだのカルティエ財団展について
おもしろい記事をみつけたので貼っておきます。

●石原東京都知事がカルティエ現代美術財団を叱る!?

(関連記事: REALTOKYO - Out of Tokyo Kafka goes Tôkyô  紺洲堂の文化的生活  弐代目・青い日記帳 )

この記事の次の記事、↓これもおもしろそう。

●「わたしの中のよからぬものがジョビジョバァ」がアート作品のパクリであるという指摘についての考察

これひとつとって見ても、
世の中で「ファイン・アート」的なものの果たす役割が大きくなって
いる気がするでしょ。
なんか。


2006年09月19日

(2006年9月17日(日)読売新聞朝刊 書評欄「本のソムリエ」より全文引用)

年を取ることが不安

私はまだ10代ですが、最近、年を重ねるのが嫌になってきました。大人になるにつれ、少女のころの純粋な感性、素直さが失われてゆくようで焦ります。年を取る事への不安がなくなる本をご紹介下さい。(埼玉県 高校生葵香子さん 17)

■回答 井上荒野(作家)

 純粋、素直であることは、そんなに素晴らしいかしら。ご相談を読んで、私がまず考えたのはそのことです。小さな子供が純粋なのは、まだこの世界のほんの端っこしか知らないからです。でも、人は、世界の端っこだけで生きていくことはできません。
 純粋でなくなっていくことを嘆いているあなた。一見美しいですが、正直に言わせてもらえば、たんに面倒くさくなっているだけのように思えます。あなたはもう、小さな子供ではない。あなたはもう十七歳で、十七年分の、いろんなことを知っている。知ったぶんだけ、面倒なことも増えていきます。生きていくのは面倒くさいものなのです。
 あなたはたぶん、そのことに気づいたんですね。そうして、あなたが探している「年を取る事への不安がなくなる本」とは、「面倒くさくない人生について書いてある本」なのでは? そんな本はないです(あっても私はきらいです)。かわりに『古道具中野商店』(川上弘美著・新潮社刊)を読んでほしい。
 飄々とした店主をはじめ、登場人物たちは、それはもう面倒くさく、日々を営んでいます。不倫したり浮気したり失恋したり、未来は見えないのに過去を引きずっていて、嘘を吐けば、嘘を吐かれ、駆け引きしてもうまくいかず、素直になりたくてもなれず。
 でも、べつに、特殊な人たちの物語ではないですよ。読めば、あなたは、登場人物の誰かに、きっと自分を重ねます。誰の人生も、こういうことの繰り返しで過ぎて行くのだとわかるでしょう。
 一方で、純粋さや素直さも、この小説の中にはちゃんと見つけることができるのです。私が思うに、それは子供時代から保存されている純粋さではなく、面倒くさい人生の過程で、あらたに獲得されるものです。
 この小説はとにかくおもしろいのですが、読み終えたあなたが、面倒くさい人生もおもしろそうだな、と思ってくれたらうれしいです。

2006年09月18日

自転する地球とともに脈を打つ全生物の遺伝子あはれ             鵜飼康東

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

(読売新聞「四季」欄2006.9.18.より)

2006年09月08日

雪渓の水汲みに出る星の中             岡田日郎


                                                                                                                                                        


雷過ぎて蠍座あかきこの夜をいろいろの猫屋根に上りぬ
                              小島ゆかり


                                                                                                                                                        


暗きより来たり暗きへ踊りゆく            西村和子


                                                                                                                                                                                                         


棟梁と木の話して九月かな             廣瀬町子


                                                                                                                                                        


(いずれも読売新聞「四季」欄より
 上から、2006.7.12、7.14、8.19、9.2)