2010年12月30日


2010年12月26日(日)読売新聞「人生案内」欄 より


回答:増田明美(スポーツ解説者)

 自分のことをよく見つめていらっしゃる相談文から、あなたは「取りあえず」という曖昧なことが嫌いな性格なのだなと感じました。何でも完璧にやろうとする真面目な方で優秀なのです。だから無能だと思われることが怖く、恥をかきたくない。その気持ちがあなたに何かに挑戦させることを止めてしまっているようです。
 きっと親御さんは優しい方で、静かにあなたを見守っているのでしょう。自分でも気づいているように、殻を破らなければいけませんね。そのためには失敗を恐れない心のトレーニングが大切です。人は自分のことで精いっぱい。他人の失敗には興味がありませんよ。成功、失敗よりも、努力を評価するものです。
 ボランティアでも小さな仕事でも、何でもいいので人に喜ばれることをしてみましょう。そうすると心にプラスのパワーが生まれますから、考え方が前向きになります。そしてたとえ恥をかいてもそれは成長のもと。
 若い頃私はラジオ番組で「結納」を「ケツノウ」と読み大笑いされ、すごく落ち込みました。でも、その時新聞の川柳欄で出会った「生きている証拠に今日も恥をかき」に励まされ、今も失敗する度にこの言葉を思い出します。間もなく新年。ぴょんっと一歩を。

2010年12月29日

2010年12月29日(水)読売新聞「人生案内」欄 より


回答:出久根達郎(作家)

 お手紙からは男性か女性かわかりませんが、あなたは本紙を広げ、人生案内欄を読み、いろんな悩みを抱えて懸命に生きている人たちを知った。自分にもこんな悩みがある、ご回答をお願いします、とお手紙を下さった。
 何事にも関心がないとは言わせませんよ。関心のない人は、手紙を書きません。あなたは誤字一つない、実に美しい文字で、ていねいに書いてよこされた。今どき手書きで。語彙の少ない人が、「端から」とか「極力」とか出てくるものですか。あなたは自分を大げさに捉えすぎるのです。過剰に卑下しているのです。自分を必要以上に悪く見せるのは、自慢と同じです。
 あなたはお若いのに無職ですね。いろいろ理由はあるのでしょうが、働かなくてはいけません。まず働いてお金を稼ぐこと。その上で、自分の要求を出すことです。そうすれば人はあなたの意見に耳を傾けてくれます。あなたの方に振り返ってくれれば、関心も湧くでしょうし、好奇心も強くなります。理屈だけ言っていたら相手にされませんよ。

2010年12月27日

『酒呑みの自己弁護』山口瞳(ちくま文庫) より引用


真面目な話(補遣)


 私は酒場が好きである。それも小さな酒場が好きだ。一杯呑み屋も好きだ。だいたい、そういうものがなければ、小粋なフランス映画も、久保田万太郎さんや川口松太郎さんの芝居も成立しないのである。そういうもののない人生なんて、とうてい私には考えられない。
 小粋な酒場をつくるために、私が努力をしなかったということはない。
 昭和三十年代のはじめに、トリスバー・サントリーバー・ブームというものがあった。私はそのお先棒をかついだ一人である。
 トリスバーとサントリーバーの第一条件は、女のいないバーということであった。女がいても席につかないバーという規約があった。
 そういうバーを、当時私が勤務していた洋酒の寿屋は応援したのである。清潔なバーを育て、優秀なバーテンダーをつくるために、会社も力をつくし、私も必死になって働いた。そうして、大いに成功し、一時代を画し、トリス文化が囁かれるようににさえなった。
 いまは昔日の勢いはない。
 どうしてそうなったのか。バーテンダーがいなくなったのである。
 むかし、小さな酒場がバーテンダーを募集すると、二百人とか三百人とかの若者が押しかけてきたのである。当時、バーテンダーは憧れの職業であり、大学を中退してバーテンダーになる人も多かった。いまは、新聞広告をだしても二人か三人という程度だろう。その原因は、どの業界にも通ずる人手不足のためである。
 では、私たちの育てた優秀なバーテンダーはどこへいったのだろうか。
 トリスバー・ブームのあとにホテル・ブームが続く。すぐれたバーテンダーはホテルの酒場に引き抜かれたのである。あるいは郷里に帰って自分で開業した。いまは案外に中小都市にいい酒場が残っている。
 女がいなくて、バーテンダーの質が落ちれば、その酒場はうまくいかない。従って、女を置くか、スナックやお茶漬屋に転業するかのいずれかとなる。
 まことに残念な状況となった。
    *
この項の最初に書いたように、私は、いまの若者を理解することが出来ないが、彼等を信ずるのは、ただ一点、私たちの世代の者のような馬鹿な酒の飲み方をしないということである。
 彼等は、酒場に置ける疑似恋愛なんかは、チャンチャラオカシク思い、鼻の先で笑うだろう。その点は非常にたのもしい。小学校以来、男女共学で育ち、もちろん赤線をしらずという男たちは、女に対する理解度がまるで違う。
 彼等が、青年紳士、中年紳士になったとき、もう一度、小粋な酒場が復活するのではあるまいか。すくなくとも、酒場へ行って、女給にさわらなければ損、抱かなければ損というような考えをもつことはないだろう。これは私だけでなく、心ある酒場経営者の見通しでもある。
    *
 最後に、私の好きな酒場を銀座で一軒、新宿で一軒だけあげておこう。
 銀座では、帝国ホテル裏のガードを越したところの「クール」。緑の丸い看板が出ている。説明は不用。まあ行ってごらんなさい。
 新宿では、区役所裏の「いないいないばあ」。小さい店であるが、グラス類も上等で、凝ったカクテルをオーダーしても大丈夫。パンも最高級品を置いているから、サンドイッチもうまい。
「クール」の古川さんも、「いないいないばあ」の末武さんも、強情っぱりで頑張っている感じが何よりも有難い。


2010年12月26日

『酒呑みの自己弁護』山口瞳(ちくま文庫) より引用


真面目な話(10)


 酒場の勘定がなぜ高いか、どうやって酒場が駄目になったかを書き続け、思わず長くなり、とりとめがなくなった。
 これは真面目な話である。
 私には、以下に書くような提案がある。それは酒場をよくするためのものである。日本の酒呑みをもっと男らしくするためのものである。
 (1)第一は社用接待費のことである。こういうものが一刻も早く消えて無くなることを強く希望する。
 そうかといって、実は、私には具体案がないのである。どうしたらいいのだろうか。
 社内旅行というのも、税制上、やらなければ損だという仕組になっている。これが観光ブームを生み、過密ダイヤの因となった。温泉地に風情がなくなり、マンモス旅館が生ずることになる。自動車公害反対と言ったって、バスで社内旅行に行く人がは公害のお先棒をかついでいるのである。これも税制上のことである。
 社用接待費をなくすにはどうしたらいいか、社用接待という習慣がなくればいい。
そこまではわかるけど、その方策と後のことがわからない。私は、これを叫びつづけるよりほかにない。諸君も参加してくれないだろうか。これは若い人のほうがいい。課長以上の社員は社用接待の毒におかされているかもしれないから。
 私は、社用接待によって高級酒場の味を知り、身を誤って馘首された会社員の名前を即座に五人まであげることができる。全国的にいえば、その数は数万人に及ぶのではないか。
 (2)ウイスキーはストレートで飲もうではないか。医者も健康上の理由で水割りをすすめることがある。しかし、ストレートのときはチェーサー(追い水)を飲むのが常識であり、健康上にそれほどの差があるとは思われない。
 水割りなんかを飲むから女どもに馬鹿にされるのである。バーテンダーにはウイスキーの量をごまかされる。
 私は、酒場で、水割りですかときかれたときには「酒を水で割って飲むほど貧乏しちゃいねえや」と叫ぶことにしている。(内心は勘定のことでビクビクしているのであるが)
 どうですか、諸君、一緒に大声で叫んでみようじゃないか。
「ウイスキーを水で割って飲むほど貧乏しちゃいねえや!」
 (3)どうしてもストレートが飲めない人はハイボールをオーダーしてください。
 水割りがうまいと思うのは錯覚であるにすぎない。強い酒は強い度数で飲むほうがうまいにきまっている。
 ハイボールは別物である。私はハイボールこそバーテンダーの腕のみせどころだと信じて疑わない。簡単なものほど難しいのである。このごろのバーテンダーは不勉強なのであり、従って店のほうでも「酒場のなかで酒を扱う人」を蔑ろにする傾向がある。みんなが水割りばかり注文するので、バーテンダーの権威が地に堕ちたのである。
 (4)前項の続きになるが、ときにはカクテルをオーダーしよう。私はジン・ベースが好きであるが、とくに、マルチニとギムレットを好む。
 銀座の高級酒場へ行ってギムレットをオーダーし、ライムは生でしょうねと言ってみよう。もし、ライムが無いと言ったら、大いに笑ってやろうじゃないか。高級酒場の看板をおろしてもらおうじゃないか。
 そうして、ここは、やっぱり、酒を売るところじゃなくて女を売るところなんですね、社用族という税金のオコボレで飲んでいるアサマシイ連中の来るところなんですねと言ってやろうじゃないか。


2010年12月10日

12月

午後5時。

江ノ島の残照。

見ている人は誰もいない。

淡い群青の空。

炎の色が、

真っ黒な島影を縁取っている。

島の灯台の鉄骨一本一本まで

島の稜線の木々の枝一本一本まで

くっきりと。

絵本のなかの影絵のように。


澄んだ宵空、

島影の上に

細い月。

むこうには

半島の灯火が、星のようにまたたいている。

ごく遠くまで。


島の集落の灯も、

どこか遠い時代のもののように

ぼんやりと

冬の澄んだ空気ににじんで

漁火のように

潤んだ眼のように

囁く森のように

共鳴する音のように

発光している。