2006年04月17日

長年の懸案であった村上龍の小説を、ついに、生まれて初めて読むことにした。
図書館で、阿部和重の本と一冊ずつ借りた。

『五分後の世界』(幻冬舎 ISBN4-87728-004-9)

1994年に書かれた村上版「国家の品格」とも言えるかもしれない。

パラレルワールド手法を用いて、
絶望的世界ながら、ある種村上にとっての理想の日本が描かれている。

・日本は、本土決戦し分割占領されたが、大敗したことで多くを学んだ。
・日本は、「アメリカ価値観の奴隷状態」になることなく、「世界にむかって勇気とプライドを示しつづけ」ている。
・日本は、「いかなる意味の差別もない」唯一の国として、国際的に認められている。
・日本人は、自国文化にプライドをもち、自律的に節度を持って生きている。
・日本人の兵士は、どの国の兵士にもまさる身体能力と、「生きのびることだけを考える」生存能力を鍛え上げている。

日本人の兵士の敏捷さ、タフさを執拗に描いているくだりを読みながら、
ふと昔村上がどこかで語っていた言葉を思い出した。たしか、こんなコメントだった。
「テニススクールとかで、動きのどんくさいオヤジとかを見てると、ブチ殺したくなる。」
種としての生存本能がそう思わせるのだ、とか言っていた。
戦争になったとき、そのオヤジのせいで自国軍が全滅するかもしれない、
そのリスクを考えると殺したほうがいいのだ、とか言ってた気がする。
坂本龍一との対談『E.V.cafe』(講談社文庫 ISBN: 4061843591)だったかな。

己の心と身体と国家にプライドを持って、サバイブしろ。
村上の考えをひと言でいうとそんな感じか。

「こいつらはそういう間抜けではない、地下で暮らしているせいで顔色はみんな白いが筋肉のつき方が間抜けの代表とは違う、身長は平均だろう、だが肩とか尻とか脚の筋肉がよく発達していてしかも締まりがある、女子も同じだ、手足がしなやかで手首や足首がキュンと締まっている、全員がスポーツ選手のようだ、先生にちくるのを生きがいにしている間抜けの代表のクラス委員は大体からだつきが変だった、キャバレーのボーイみたいに尻が小さくて蹴りを入れると折れそうな腰をしているか、スポンジや風船みたいなブヨブヨの、締まりのない肉の持ち主だった、養殖魚とかブロイラーとかそういう類の肉だ、ごくまれに、学年に一人いるかどうかという割合で、まったく別のタイプがいた、放っといても勉強ができて、脚が速く、不良のグループにも平気でオハヨウと声をかけてくるような奴だ、先生にくってかかることもあるし、冗談もうまい、そういう奴は手に負えなかった、集団でしめにかかっても決して屈しないし、そのうちこっちがみじめな思いに陥ってしまう。こいつらは、と小田桐は次の発着スペースで降りていった生徒達を見て思った。全員、その手に負えないタイプなのだ。」

(『五分後の世界』より)

村上の小説を初めて読んだのだが、その文体についても感想を持った。

この小説がSFだったからかもしれないが、
すでに存在する世界が言葉で描写されている、という感じではなくて、
一文一文から世界が作られていく、という感じを受けた。

白紙の原稿用紙に世界を作り出そうと、四苦八苦している様子が伝わってくる感じだ。
一文書かれるごとに、接ぎ穂が伸びるように、原稿用紙に世界が書かれるのが見える。
「がんばって描写してやる」という意気込みが伝わってしまう感じ。

変な言い方だが、私が自分で(世界をつくりだそうとして)書いている文章みたいだ、と思った。
つい先日読んだ、宮部みゆきや高村薫の「フィクション」とは、ずいぶん違う印象だ。
(この比較に意味はないかもしれないが。)

・後半、盟友坂本龍一を模した「ワカマツ」が登場するあたりから、だれた。

・主人公の発言が、カギカッコでくくられないのは新鮮だった。

それから、
もうひとつ気づいた点。
異様に速く」とか「恐ろしいほど素早く」とか「信じられないスピードで」とか、ずいぶんポピュラーな修飾語が多用されていたのにも驚かされた。一気呵成に書き上げたという感じは伝わってくるが、工夫された日本語という感じはしない。
もしかして、主人公小田桐の表現力の無さを表現しているのか?
もしかして、この人は、「美文」とかは軽蔑しているのかもしれないな。
もし訊いたら、こんな風に答えるかもしれない。
「もちろん母語としての祖国語は上手に使えなくてはならないが、目的は的確な伝達だ。美文なんてものは、室町時代の貴族化した武士みたいなものだ。」


大蔵省出身の三島由紀夫は、筋肉と国防で、自らを武装した。
佐世保の村上は、さしずめ、筋肉と経済か。


そういえば、村上の新刊は「盾」っていうんだった。

「わたしは一つの仮説を立ててみました。わたしたちの心とか精神とか呼ばれるもの
のコア・中心部分はとても柔らかくて傷つきやすく、わたしたちはいろいろなやり方
でそれを守っているのではないか、というものです。そして守るためのいろいろな手
段を「盾・SHIELD」という言葉で象徴させることにしました。さらに「盾」には、
個人的なものと集団的なものがあるのではないかと考えて、それをわかりやすく伝え
るためにこの絵本を作りました。官庁や大企業のような強い力を持つ集団・組織へ加
入することで得られる盾もあるし、外国語の習得、いろいろな技術・資格など個人で
獲得する盾もあって、わたしたちは常にそれらを併用しているのではないかと思いま
す。たとえば日本国籍は、日本に居住している大部分の人が持つ盾で、海外に行くと
そのことがわかります。

 この絵本のテーマは、官庁・企業に代表される集団用の盾に身を寄せるのは危険だ
から止めて、個人用の盾を獲得すればそれでいいというような単純なものではありま
せん。どのような盾を選ぶにしろ、それに依存してしまうのは危険です。いずれにせ
よ、盾はとても大切なものを象徴しています。自分はどんな盾を持っているのか、あ
るいは持とうとしているのか、読者のみなさんが考えるヒントをこの絵本で得ること
ができればと思います。」

(『盾・SHIELD』幻冬舎刊  「おわりに」より ・JMMより引用)


おわりに、
パラレルワールドつながりで、ぜんぜん関係なくひとネタ
だれかに教えてあげようっと。

2006年04月13日

どぎも。

http://earth.google.com/index.html

今日、歴史の変わり目を見た。

(それも、いともカンタンに見てしまった。 

この先に通じているのが、地獄でないことを祈りつつ。)

2006年04月12日

 「こんな幼稚なふるまいが通る社会というのはしかし、皮肉にも、成熟しているのかもしれない。とくに何のわざを身につけることがなくともなんとなく生きてゆける。自活能力がなくても、『一人前』にならなくてもまあそれなりに生きてゆける…。大半のひとがそのように感じながら生きてゆける社会は、セーフティネットがほんとうに完備しているならの話だが、たぶん成熟しているのだろう。とすれば、『一人前』にならなくても政治にかかわれる、経営もできる、みんなが幼稚なままでやってゆける、そんな社会こそもっとも成熟した社会であると、苦々しくも認めざるをえないのだろうか。

 働くこと、調理すること、修繕すること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話し合い取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬことの大半を、ひとびとはいま社会の公共的なサービスに委託している。社会システムからサービスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返して言えば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失っていく過程でもある。ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。このたびの事件の数々は、そうしたシステムを管理している者の幼稚さを表に出した。ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。
 『われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁の方へ走っている』。十七世紀フランスの思想家、パスカルの言葉はいまも異様なほどリアルだ。

(中略)

ひとはもっと『おとな』に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、『未熟』は、護れない。」

(鷲田清一「現代おとな考」より引用 読売新聞2006年4月12日(水)朝刊に掲載)

2006年04月05日

「検察の中でも、政治や経済の中枢に関わる場合もある事件を扱う特捜部が、組織として微妙に権力とつながっていることは、おおむね合田にも想像のつく話だった。独立の捜査機関とは名ばかりで、個々に法務省へ出向する形で中央官庁とつながり、上の方は官僚と同じように天下っていくか、弁護士に転身してかつての敵を擁護する立場に回るのだと聞く。それをよしとしないなら、地方を転々として消えていくだけで、自分はその口だと、義兄はよく言っていたものだった。」

「『政治や経済のシステムの根幹に近いところで流れる不正な金については、それが表に出ることを阻む暴力が働くんだ。システムを守ろうとする暗黙の膨大な力だ。沈黙。自殺。スケープゴート。失踪。何でもありだ。』」

(『レディ・ジョーカー(下)』 高村薫 毎日新聞社 ISBN: 4620105805 )


最近は、面白い本を読んだ後には、よくAmazonのカスタマー・レビューを読みにいく。

この本を高村薫の最高傑作と推す声は多かったが、
「あの事件」の真実が書かれている!
という類のレビューは、意外に少なく約1名だった。

私はと言えばそれはもう
「あの事件」の真実が知りたくて読み始めたようなもんだから
8割方ノンフィクションを読んでいるつもりだった。

だから、終章に近づき、物語が映画的になるにつれ
(けっきょく)本当の真実は知りえないことに(今さらながら)気づき、ため息をもらした。

Amazonのカスタマー・レビューでは
この映画的なエンディングを賞賛する声が多かった。


また、同時に、映画版をこき下ろす声も多かった。
とくに監督への罵声が多く、「仕事として撮っただけでは」などと冷静に批判されていたのには思わず注目した。


映画監督になれた人なんて、『ウェブ進化論』の言葉を借りれば、まさに
「ほんのわずかな人に許された特権」を手にした立場。
「仕事として・・・」なんて言われるのは
ふがいないことですよね・・・。

 「文章、写真、語り、音楽、絵画、映像・・・。私たち一人ひとりにとっての表現行為の可能性はこんな順序で広がっていく。それが総表現時代である。ブログとは、そんな未来への序章を示すものである。
(中略)
 メディアの権威側や、権威に認められて表現者としての既得権を持った人たちの危機感は鋭敏である。ブログ世界を垣間見て「次の10年」に思いを馳せれば、この権威の構造が崩れる予感に満ちている。敏感な人にはそれがすぐわかる。」

(『ウェブ進化論』 梅田望夫 ちくま新書 ISBN: 4480062858)

2006年04月04日

 ジャッキー・マクリーン氏(米サックス奏者)AP通信によると、3月31日、米コネティカット州ハートフォードの自宅で死去。73歳。
 ニューヨーク出身。19歳でマイルス・デイビスのレコーディングに参加しデビュー。1959年のアルバム「ジャッキーズ・バック」発表を機に自由な演奏スタイルが注目された。60年代末からハートフォード大学で教べんをとった。(ニューヨーク支局)

(読売新聞4月3日朝刊より)

私が好きなのは『THE JACKIE McLEAN QUINTET』
(TOCT-5360 原盤ROULETTE)(他にJubilee JLP 1064、30CY-1438等の盤もあるらしい) 。
通称「ネコのマクリーン」。
大好きだった1曲目の「It's you or no one」に久しぶりに耳を傾ける。

ジャケットの裏には
Recorded in N.Y.C. October 21,1955
と書いてある。

あ、この素敵なピアノはマル・ウォルドロンか。

2006年04月02日

『国家の品格』を読んだとき、
いちばん最初に頭に浮かんだ感想は

日本人が美に繊細なら、じゃあどうして日本の景観はこんなに醜いのか

という疑問だった。


幼い頃から
バスの車窓を眺めては
くりかえし沸き起こり、
そのたびいろいろな言い訳をつけて抑え込んできた感情。

それが改めて、読後にくすぶり始めた。


そんなある日、
ひょんなきっかけで
赤瀬川原平の写真集を見た。

『新 正体不明』(東京書籍 ISBN: 4487800145 )

ページをめくっているうちに、なにか
積年の疑問に対する、言葉にできない答えをもらった気がして、
一瞬涙がうかびそうになった。

(なんで赤瀬川原平の写真集で感涙しなければならないんだ? (大変失礼。))


 「自分が作品として何かを作ることがつまらなくなり、がっかりしていた一九七二年、路上でふとそういう物件を見つけたのだ。
 ハッとした。作家が作らなくても、世の中には知らずに出来てしまった妙な物件がある。」

 (『新 正体不明』より)


私が赤瀬川原平の存在を知ったのは1987年。
当時発売されたばかりの『超芸術トマソン』(ちくま文庫ISBN: 4480021892)を
読んで以来の旧知(=ファン)だったから、
たまたま手にした『新 正体不明』も、最初からすべて判った気で
トマソン以上の期待はせずにページを繰り始めた。(重ねて失礼。)


 「ぼくはとくに思いがけないものが好きだ。人間の頭の面積に不満があるからだ。もっと広くていいはずだと思っている。だからカメラによって、見ているつもりで見えていなかったものがあらわれてくるのは、じつに気持のいいことなのである。」

 (同上)


写真に撮られているのは、ゴミすら片付けられずに散らかったままの汚い町角。
しかし
途中から、ふと
これは
汚いはずの町角が美しく見える写真であることに、気づき始めた。


そう思ってさらにページをめくると、写真のキャプションの中に

「汚いけど綺麗。」

などと書いてある。

 「たとえば最初の正体不明では巷の物件そのものに興味がいっていたが、十年たつうちには、そういう物件を見る人間のまなざしの方に興味が向かっているようなのだ。物も変わるが、人間の目も変わっていくものらしい。
 今回は物件というには頼りないようなものを、その細部の魅力に引かれてかなり載せようとしていることに気がついた。こんなものを載せるとばかにされるかな、と思いながら、でもそのスリリングな関係に、何か潜んでいるような気もするのである。」

(同上 下線引用者)

あのときの感涙の正体は何なのだろう。

きたないと見えて、実はその中に美を含んでる日本の風景に感動したのか?

いや・・・


きたない風景の中にすら、美の道を見出す日本人の感性に感動したのか?

う、ん・・・


きたない風景の中で、まるで芭蕉のように最先端の美を見つけた赤瀬川のまなざしに感動したのか?

うん・・・


きたない風景にも適応し、その中で美すら見つけ出してしまう。ごみ溜めのなかの虫のような日本人の性(さが)にあわれを感じたのか?

・・・そうかもしれない。

2006年04月01日

紙雛に角力とらせる男の子               『柳多留』


                                                                                                                                                        


たんぽぽのサラダの話野の話              高野素十


                                                                                                                                                                                                         


京菜洗ふ青さ冷たさ歌うたふ              加藤知世子


                                               


蛇穴を出れば飛行機日和也               幸田露伴


                                               


両方に髭がある也猫の妻                来山


                                               


帰れざる貝ある春の渚かな               石田勝彦


                                               


南無八万三千三月火の十日              川崎展宏


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

(いずれも読売新聞「四季」欄より
 上から、2006.3.3、7、4、5、12、22、10)