2006年06月30日

夏至のころ。


夏至のころは、いい。

春宵もいいが、
夏至のころの、誰そ彼時は、いい。

日が失われていく時間帯を
意識するようになる。


人けのない歩道橋で
かたちがおぼろげになっていくブルーグレーの空気を
感じている。

ものの姿が失われていく時刻に
よく遭遇するようになる。


未明の空が
蒼く、白んでいくのが
記憶にのこったりするのも、
たぶん夏至のころだ。


夜の早い時間なのか
夕方の終わりなのか
よくわからない白いシーツの色が
記憶にのこったりするのも、
たぶん夏至のころのような
気がしてきた。


夜の早い時間なのか、
窓の外、遠くを車がしゃあしゃあと音を立てて流れていく。


物事の境界線があいまいになる


夏至過ぎて。

2006年06月27日

長尺-3

曲名: Perdido
収録: 「Live at Carnegie Hall」 Charles Mingus
尺数: 21'57"
録音日: 1974.1.19.
(Rhino - ASIN: B0000033QY)


夜が白みはじめていた。

ほのかに青白く
おぼろげな解像度で
ものがかたちを帯びはじめていた。

二階の窓から見下ろすと、
目の前の広い幹線道路はがらんとして、ときおり車が流れていく。

粗い空気の粒。
薄紫の麻の生地ごしに
かすめてものを見るような。

大きな交差点の斜向こう側には
こちらと同じように
角地に立った店があって、
白みはじめた空気とはちぐはぐに
ねっとりと濃く赤いランプがビロードの照りのように
終わりゆく夜を哀しんでいるように見えた。

店内には、まだ夜が居残っていた。
空気は、流れない。
それでも窓外の露光の変化は
古時計や使われないギターや
棚のうえに山のように積まれた立派な古道具(ガラクタ)に
うっすらとちりが積もったような
白い光を与えていた。

もう客は、
われわれだけかもしれない。


さっきから
長い長い曲が、続いている。
夜も終わりだよ、さあ、

店内のわれわれに告げているように
聞こえる。

昨日から続いてきた長いひと晩の大団円を締めくくる
ファンファーレのような、
それとも
夜が終わってしまうことが惜しくて
すこしでも引き延ばそうと
もだえている
断末魔のような。

そんな曲だ。


さすがに長すぎる。
それにしても気になる曲だ。

トイレに立ったついでだったか、
店のTATOOに曲名を訊いた。
TATOOにものを尋ねたのは初めてだったが
彼女はアルバムのジャケットを手に
きちんと教えてくれた。


こうしている今夜にも、
あの街で
この街で
人間の種類だけ
あんな夜や
こんな夜、
数えきれない種類の夜が過ぎている。

ある年齢だけが
過ごす夜がある。

ある季節の人間だけが
過ごすことができる夜がある。

もう二度と過ごすことはない夜の過ごし方がある。


毎晩酒を飲み続けていると、
やがて
どんな夜も
いつもと同じ
ただ過ぎてゆくだけの夜になってしまうのだろうか。

なぜだろう。
あの頃、
すべての夜が
特別な夜だった。


人生には真理があると思っていて
その真理の一端は
「AKIRA」に書かれていると思っていた。

読書灯のついた棚のうえに
乱暴に積み重ねられたその中に。

傷だらけの卓球台をつかったテーブルに
何かの証しを刻みつけたくて、
サインを彫りつけた。

曰く、
NEO JAPANESE BEATNIK
島嶼派
古い話。

夜は
明けることはないだろう。
この曲も
いつまでも永遠に終わることなく
ローランド・カークは
闇のなかで呻りつづけるだろう。

山手通りと目白通りの交差点に
陽が昇ることはないだろう。

1階のファミリーマートの蛍光灯が消えることはないだろう。

d-kenに連れられて登った店の階段の入り口から
2台のバイクが消えることはないだろう。


移転したその店(b-girl)には、結局一度だけ行った
その店も今はもう無いと聞く


2006年06月16日

「僕の場合、いつも商品が目指しているターゲットから言葉が出てくるんです。僕のマーケティングは広告する商品を他の商品と差違化するのではなくて、マーケットの中を差違化するマーケティング。今はほとんど商品に違いがないから、広告の受け手の方を差違化していくわけです。これを使うと知的に見えるとか、オシャレに見えるとか。受け手に『この広告は自分のことを言っているんだな』と思ってもらえたら、そこでコミュニケーションが到達する。次第にブランディングが出来てくる。その商品を使うと自分がどうポジティブに見えるかということが、僕のブランディングの一つの方法論なんです。インフラというマーケティングがしっかりしていれば、言葉なんていくらでも出てくる。そこから出てくる言葉であって、僕が出してる言葉じゃないんですね。」
(『ブレーン』2006年6月号 「伝わる広告とコピーを求めて Vol.16」 秋山晶インタビュー より)


「孤独はイメージの核みたいなものだと思います。なぜなら、孤独は非常にポジティブなものだから。孤独自体は決して不幸なことではなくて、孤独に気づいていないことが一番の不幸なんです。隣に人がいるとか、愛する人がいるということは関係ない。孤独というのは自分自身のものだからね。孤独から生まれたコピーは深層心理から出てきたものだから、時代も性別も人種も関係なく、人間の共通したものであるはず。そういうのが優れたコピーだと思います。大事なのは、いかに具体性を持たせるかということ。だから僕はライブ感を出したいと思っているんです。過去のことを語っても、いま“この瞬間”を持っていることが大事。文章を読んだ人の中に浮かぶ映像、それこそがコピーにおける一番のライブ感といえるでしょうね。」
(同)


・・・

文章が上手な人は、しばしば
段取りっぽい書き方をしない。

理屈のステップを飛ばしたりする。

それなのに、
書き手のペースに読み手を巻き込んでいく。

そういうのもライブ感と言える気がする。

AはBである。BはCである。ゆえにAはCである。
と、行きつ戻りつ、説得のステップを歩まない。

AはBだ。CはDだ。EはFだ。
と書き進めていくのだが
読み手は、まるでAからFまでつながっているように読めるのだ。

以前ある人が言ってた
「斜め読みできること」というのも、そういうことなのだろうか。

・・・

「間を開けているけれど、一切説明はしていません。そうすることで、読む人は文章の間を補填しながら読んでいくわけです。いわばデジタルですね。デジタル録音は音と音の間に隙間がある。しかし、脳は音は連続していると理解しているから、音と音が連続して聞こえるのです。文章でもそういったデジタル式で書いたものの方が、今の人たちには読みやすいのではないかと思います。」
(同)


「『生きてるうちは未来だ。』というコピーは、全体の文章よりも先にできました。いま僕は70歳で、世の中と接触できるのはせいぜいあと10年。だからポジティブでいたいと思っているんです。未来は有限だけど、自分が死ぬまでは未来。『新聞を読むようになって、僕は老人になった。』という言葉から始めたのは、老人であるというスタンスを限定しないと『生きてるうちは未来だ。』という言葉が実感として伝わらないと思ったから。若い人が言っても伝わらないけど、老人が言っていると思うと意図が伝わりやすくなるでしょう。」
(同)


・・・

年齢をとって、私は、他人を尊敬することを覚えた。

2006年06月14日

「新聞を読むようになって、僕は老人になった。」
という一文ではじまる
リクルートの雑誌広告を偶然に読んだ。

タイトルコピーは、
「生きてるうちは未来だ。」

このコピーライター、秋山晶に遺書を書かせてしまった
この広告制作者の
たくらみはすごい。


・・・


忘れているが、あなたはひとつの自然だ。

ふだんは考えたこともありませんが、私たち、ヒトの身体は自然そのものです。

その自然が、不自然な都市で生きています。情報、データ、騒音の中で。

身体は食べ物でつくられます。脳も、心臓も、筋肉も。

人工的でない食べ物が必要です。パッケージに入っていない食べ物。

自然にいちばん近い食べ物。

野菜は活性酸素を除去し、ストレスをやわらげる働きがあると言われています。


キューピーマヨネーズは1925年3月1日(きょう)誕生しました。


都市のサプリメントは野菜です。
キューピーマヨネーズ


(キューピーマヨネーズ 新聞広告より)

2006年06月13日

6月12日「NIKKEI NET 写真ニュース」より


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カラスさま熊野大神さま…大絵馬に必勝祈願

 「ガンバレ!日本」「熊野大神サマ日本代表を応援してください!」

 サッカー・ワールドカップの日本対オーストラリア戦を目前に控えた12日朝、和歌山県田辺市の熊野本宮大社では、日本代表必勝祈願の大絵馬に、訪れた人が勝利を願うメッセージを書き込んでいた。

 同大社が祭る八咫烏は、日本サッカー協会のシンボルマークである三本足のカラスにそっくり。八咫烏は神武天皇を大和に道案内したとの伝承があり、「ゴールに導く神の使い」として協会幹部も4月に必勝祈願に訪れた。

 九鬼家隆宮司(50)も「世界の舞台で120パーセントの力を発揮して」と期待。神の鳥のご加護で初戦を勝利で飾れるか。

〔共同〕 (15:16)
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(ここまで)

「八咫烏は、シンボルマークである三本足のカラスにそっくり。」だって??
妙な書き方しますね。

「八咫烏は、日本サッカー協会のシンボルマーク。」って、なんで書かないのだろう?

八咫烏 - Wikipedia

熊野の説話/神武東征、ヤタガラスの導き

八咫烏-平安大事典

W杯初戦は、豪州に1-3逆転惨敗。
残念だが、
ヒディングは格好いい。


2006年06月11日

「投資は投機のなれの果て」という相場の格言があるそうです。
新聞に書いてありました。

意味は、
長期的投資などするつもりが無かったのに、相場が下がるいっぽうなので売るに売れず、意図せず「投機」が「投資」になってしまった
ということだそうです。

投資の短期化、というのは世界的な(いわゆる先進国の)トレンドのようで
おなじく読売新聞5月28日(日)朝刊の
『地球を読む(アルビン&ハイディー・トフラー)』には
「基礎的研究の軽視~短期的見返りの弊害~『未来』に背向ける先進諸国」
という論文が載っていました。
一部を以下に引用します。


「そして米タイム誌は、『企業はますます迅速な利益を求める株主の圧力にさらされ、短期的な目標に集中している」と伝えている。(中略)ハーバード・ビジネス・レビュー誌の最新号は、クレイトン・クリステンセン教授が1997年に発表したイノベーション(技術革新)理論に関する3人の専門家の論文を掲載し、CEOたちに対して、同教授の言う『破壊的イノベーション』戦略を採用するよう促している。
 それによれば、各企業は、新しい市場への製品の創出を模索するのではなく、既存の製品のより単純化された廉価版を提供すべきだ。つまり、より安価で使いやすい製品を、付言すれば、より迅速に設計、販売できるものを作るべきだと言うのである。
 だが、すべての企業が本当にこの助言に従い、突破口を開くための研究を控えたら、画期的な製品はなくなる。もし古人がこれに従っていたら、われわれはいまごろ、石斧をせっせと研いていたはずである。(中略)
 そして政府資金もまた、基礎的な研究よりも、短期的な研究に移行しつつある。国防総省の防衛高等研究計画局(DARPA)は、インターネットの開発を筆頭に、長期的で投機的な研究による多数の画期的成果で知られる伝説的な研究センターだが、いまや短期的な成果に集中するよう圧力を受けている。(中略)
 基礎研究を軽んじる国や企業は、足元が空回りしているだけで、肝心の頭は速度が落ちている、つまり、未来の到来を早めるような種類の研究を、遅らせているのである。」


そして
同論文によると
「マイクロソフト、インテルなどの各社を会員に含む提言機関『米国のイノベーションの未来に関するタスクフォース』の報告書は、(中略)『中国は今後10年間に、基礎研究向けの科学支出の割合を、200%増やす意向だ』と述べている。」
とのことです。

2006年06月08日

本屋に立ち寄る。そして、困る。
読みたい本がいっぱい見つかるからだ。

ハードディスクにソフトウェアをインストールするように
がんがん脳内に注入できたら、いいのに。

『東京大学のアルバート・アイラー』(菊地 成孔、 大谷 能生 メディア総合研究所)
の「赤本」「青本」をゆっくり読んでみたいのだが
そんな時間は、なかなか来なさそうだ。

ネットの世界では
自分の意図で「検索」して進んでいく感触があり
出会える「偶然」の幅も
あらかじめ自分が意図した方向の範囲内、といった感じで
比較的狭いような気がするが、
本屋を歩いたり
雑誌をめくったりすると、
自分の「意図」で検索しているだけは出会えない
だれかの「意図」と
偶然に出くわす感覚を
より強く感じる。

だから、人は相変わらず
本屋に集まったり、雑誌をめくったりするのだろう。
サイコロを振るように。

2006年06月07日

最近NHKで夜に放送している
『世界ふれあい街歩き』という番組をよく見る

海外の古い町並みを、
カメラが「主観の眼」になって、ただ散歩する
という番組。

毎回、俳優や女優がアフレコで
旅人(「眼」の主)の声をつけている。

あるときは独り言、あるときは心の声、あるときは実際だれかと話す声。

いつのまにかその声の主が
実際に旅をしながらつぶやいているように思えてくる。
(中島朋子がいちばん良かった。牧瀬里穂も。)

地元の人でないと歩かないような路地に
ずんずん入っていくところが、たのしい。

・・・

ヨーロッパの古い路地には
広告がない。

レンガか石で造られた落ち着いた建物がつづく。

たまに一階の開いた扉から
カラフルな商品が並んだ陳列台がはみだしていて、
それではじめてその場所が
ドラッグストアだとわかる。

けばけばしい屋外看板など、ない。

渡名喜島、という島にいたとき、
村でも数少ない「商店」は
外から見ただけでは、わからなかった。
ガラガラッと引き戸を開けると
生活雑貨が並んでいて、
それでここが商店だということがわかった。

大和の国も
こんなふうになればいいと思う。

町家や武家屋敷が並ぶメインストリート。
店先にちょっと溢れたカラフルな商品陳列台。
そのことではじめて、そこがマツキヨであることがわかる。

・・・

読売新聞5月30日(火)朝刊より

「アメリカでは現在、ほとんどの場所で、屋外に自動販売機を設置することが禁止されています。アメリカ人は日本人のように器用ではないので、醜いものは目に入れず、美しいものだけを選択して見て楽しむことができないからです自動販売機が1台あるだけで、景観全体の美しさが損なわれると考えるのです。(中略)現代人が『我慢』を忘れてしまったように見えるのは、ことによったら、自動販売機の普及と関係があるのかしら。」(『桐谷夫妻の一期一会』より)


・・・

はるか昔、
就職活動をしていた頃、
とあるテレビ局の一次面接で
「どんな番組をつくりたいか」という超・基本的な質問をうけた。

私の答えは、たしかこんな感じだった。
「カメラがただ見たままを、写しっぱなしにして、旅をしたり、知らない土地を移動する番組。」

「ナレーションも音楽もなく」
とも言った気がする。

面接を終えて、すぐに後悔をしたようにおぼえている。
おそらく他の就職希望者はみな、
放送作家ばりの斬新なバラエティー番組の企画だったり
ジャーナリストの卵らしく使命感に満ちた報道番組だったりを
提案していることだろう。
少なくとも、学生らしく「世の中に影響を与えてやろう」というエネルギーに満ちた企画を
ぶつけていることだろう。

それなのに、私の回答はといえば
深夜未明のNHKで、すべての番組が終わったあとに
地味に放映されている『映像散歩』のような企画じゃあないか。。。

実際、当時から『映像散歩』のような
何の企画意図もない、水のような番組が好きだった。

どこの誰とも知れぬ番組制作者の
「企画」やら「意図」とやらを、むりやり呑み込ませられ嚥下させられる。
そういう
「だれかの意図の過剰さに疲労させられる」要素が
『映像散歩』的な番組には無かったからだと思う。

あのときの自分の答えを(いまさら)解釈してみるなら、
映像と音の両方をもったテレビだからこそ
もっと「バーチャル・リアリティ」的な演出を追求できるはずだと思っていたし、
また「演出しない番組を見られる、という希少価値がもっと求められても良いのでは」との思いもあった。

でも、その面接では
そういった説明は一切しなかった。というかできなかった。
論理的にそう思っていたわけではなく
なんとなく自分が見たいと思っていただけだから。

案の定、面接は落ちた。
いまになって急にそんなことを思い出した。

「相手が求めているものを与える。」
・・・。
私は、まったく社会化していなかった。


・・・

追記:
同じくNHKで『にっぽん清流ワンダフル紀行』という番組もあって、
これもまた、いいんだよねえ。
ビールのつまみに。

2006年06月06日

6月3日(土)夜
『強く生きる言葉』という岡本太郎のコトバ集を読んだ。
(岡本敏子編 イーストプレス ISBN: 4872573250 )

たくさんの力強いコトバがあったが、
なかでも
「忘れるから、つねに新鮮でいられる」という趣旨のコトバがあって
面白かった。


「尊敬する人がいる、なんて甘えだ。」みたいなことも言っていた。
面白かった。

2006年06月05日

5月28日(日)
手賀沼から、利根川沿いを通過する。

tone river01.JPG

この2分前、雲はくっきりとクジラのかたちだった。

この2分後、大利根飛行場から2機のセスナが大空を舞った。


tone river02.JPG


旅は続く。

2006年06月03日

どうして泣きそうになったのか、わかった。

不可逆だからだ。

2006年06月02日

2005年の出生率が「1.25」と過去最低になることが報道された6月1日、

『若者殺しの時代』(堀井憲一郎 講談社現代新書ISBN4-06-149837-1)を読了した。

何かの因果を感じた。

『枯木灘』を読む足どりが重く、なかなかすすまないので手に取ったら
とまらず読みきってしまった。


読み終えて、
『国家の品格』と並ぶくらい、たくさんの人におすすめしたくなった。
(自信はないけど。)

そして泣きたい気持ちになった。


読みながら、「時代」という名の大きな竜のような動物が、
自分の死期を知って、その人生を問わず語りに綴っているように感じた。

竜は、主に80年代、90年代を振り返りながら
眼に涙をためていた。

その語り口が、必要以上にシニカルで、饒舌で、ペシミスティックなので、
あきらかに誰か個人の、主観的な思い出に読めるのだが、
それなのに
内容は、一個人ではカバーしきれない規模の広いジャンルから
客観的なデータを集めてつくられているので
ついつい、誰か個人の記憶ではなく
「時代」という巨大な動物のひとり語りに読めてくる。

竜は、反省しているような、後悔しているような口調で
それでも思い出をいとおしむように語りつづける。

 「こういう記事を読んでいると、1970年代は『若者』というカテゴリーがまだきちんと社会に認められていなかったんだということがわかる。(中略)
 おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいているだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、「若いおとな」とはまったく別個の「若者」という新しいカテゴリーが発見され、「若者」に向けての商品が売られ、「若者」は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、ともかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。
 あまりまともな商売ではない。田舎から都会に出てきたばかりの人間に、都市生活に必要なものをべらぼうな値段で売りつけているのと変わらない。それも商売だと言えば商売だが、まともな商売とは言えない。自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み、おとなたちがその余剰で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本と日本の若者だ。」
(『若者殺しの時代』より)

著者は1958年生まれ。で3浪しているそうだから、
大学生以降は
1961年(昭和36年)組ということになる。

昭和36~38年前後生の人を見てたまに思うこと。
その人がどんなに派手にしていても、どんなにお金持っていても
その派手さやお金に対して、まったく羨望を覚えない。
派手にすればするほど、お金をもてばもつほど
「やりたいんだね。やれば。」と思うだけである。

この本を読むと、
彼らが「若者ビジネス」のまず最初の標的であり、犠牲者であったようだ。
「若者をやっていると、金がかかることが多い」
という時代の先駆者たちなのだろう。


すこし冷静になると、
こじつけのように思えるところもあったり、
携帯電話やコンビニの普及は万国共通だろうに
海外では同じようなことは起きないのだろうかと純粋な疑問がわいたりもする。

そういう意味では、
やはりどこか主観的な本なのである。
それが、読者をセンチな気分にさせるのである。

そして、読む人をもっとも感傷的な気持ちにさせるのは
この本に述べられた
「従来の日本システム」の死期宣告のくだりである。

これも読む人によって感想は異なるかもしれない。
「こじつけ」「主観」といわれれば、そうなのだから。

著者こそ、
『一杯のかけそば』の栗良平のように、ペテンの
予言者なのかもしれない。

それでも、読んだあと、夜の宙を見上げて
これからどんな風に生きていこうか。
なんて、思うでもなく思ってしまった。

(すこしセンチメンタルになりすぎかな。)

最後に、このあいだもつけたおまけ
預言者なら、預言者同士、
ペテン師なら、ペテン師同士、
メッセージは奇妙に符合している。