2006年06月02日

2005年の出生率が「1.25」と過去最低になることが報道された6月1日、

『若者殺しの時代』(堀井憲一郎 講談社現代新書ISBN4-06-149837-1)を読了した。

何かの因果を感じた。

『枯木灘』を読む足どりが重く、なかなかすすまないので手に取ったら
とまらず読みきってしまった。


読み終えて、
『国家の品格』と並ぶくらい、たくさんの人におすすめしたくなった。
(自信はないけど。)

そして泣きたい気持ちになった。


読みながら、「時代」という名の大きな竜のような動物が、
自分の死期を知って、その人生を問わず語りに綴っているように感じた。

竜は、主に80年代、90年代を振り返りながら
眼に涙をためていた。

その語り口が、必要以上にシニカルで、饒舌で、ペシミスティックなので、
あきらかに誰か個人の、主観的な思い出に読めるのだが、
それなのに
内容は、一個人ではカバーしきれない規模の広いジャンルから
客観的なデータを集めてつくられているので
ついつい、誰か個人の記憶ではなく
「時代」という巨大な動物のひとり語りに読めてくる。

竜は、反省しているような、後悔しているような口調で
それでも思い出をいとおしむように語りつづける。

 「こういう記事を読んでいると、1970年代は『若者』というカテゴリーがまだきちんと社会に認められていなかったんだということがわかる。(中略)
 おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいているだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、「若いおとな」とはまったく別個の「若者」という新しいカテゴリーが発見され、「若者」に向けての商品が売られ、「若者」は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、ともかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。
 あまりまともな商売ではない。田舎から都会に出てきたばかりの人間に、都市生活に必要なものをべらぼうな値段で売りつけているのと変わらない。それも商売だと言えば商売だが、まともな商売とは言えない。自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み、おとなたちがその余剰で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本と日本の若者だ。」
(『若者殺しの時代』より)

著者は1958年生まれ。で3浪しているそうだから、
大学生以降は
1961年(昭和36年)組ということになる。

昭和36~38年前後生の人を見てたまに思うこと。
その人がどんなに派手にしていても、どんなにお金持っていても
その派手さやお金に対して、まったく羨望を覚えない。
派手にすればするほど、お金をもてばもつほど
「やりたいんだね。やれば。」と思うだけである。

この本を読むと、
彼らが「若者ビジネス」のまず最初の標的であり、犠牲者であったようだ。
「若者をやっていると、金がかかることが多い」
という時代の先駆者たちなのだろう。


すこし冷静になると、
こじつけのように思えるところもあったり、
携帯電話やコンビニの普及は万国共通だろうに
海外では同じようなことは起きないのだろうかと純粋な疑問がわいたりもする。

そういう意味では、
やはりどこか主観的な本なのである。
それが、読者をセンチな気分にさせるのである。

そして、読む人をもっとも感傷的な気持ちにさせるのは
この本に述べられた
「従来の日本システム」の死期宣告のくだりである。

これも読む人によって感想は異なるかもしれない。
「こじつけ」「主観」といわれれば、そうなのだから。

著者こそ、
『一杯のかけそば』の栗良平のように、ペテンの
予言者なのかもしれない。

それでも、読んだあと、夜の宙を見上げて
これからどんな風に生きていこうか。
なんて、思うでもなく思ってしまった。

(すこしセンチメンタルになりすぎかな。)

最後に、このあいだもつけたおまけ
預言者なら、預言者同士、
ペテン師なら、ペテン師同士、
メッセージは奇妙に符合している。

投稿者 vacant : 2006年06月02日 15:38 | トラックバック
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