2006年06月07日

最近NHKで夜に放送している
『世界ふれあい街歩き』という番組をよく見る

海外の古い町並みを、
カメラが「主観の眼」になって、ただ散歩する
という番組。

毎回、俳優や女優がアフレコで
旅人(「眼」の主)の声をつけている。

あるときは独り言、あるときは心の声、あるときは実際だれかと話す声。

いつのまにかその声の主が
実際に旅をしながらつぶやいているように思えてくる。
(中島朋子がいちばん良かった。牧瀬里穂も。)

地元の人でないと歩かないような路地に
ずんずん入っていくところが、たのしい。

・・・

ヨーロッパの古い路地には
広告がない。

レンガか石で造られた落ち着いた建物がつづく。

たまに一階の開いた扉から
カラフルな商品が並んだ陳列台がはみだしていて、
それではじめてその場所が
ドラッグストアだとわかる。

けばけばしい屋外看板など、ない。

渡名喜島、という島にいたとき、
村でも数少ない「商店」は
外から見ただけでは、わからなかった。
ガラガラッと引き戸を開けると
生活雑貨が並んでいて、
それでここが商店だということがわかった。

大和の国も
こんなふうになればいいと思う。

町家や武家屋敷が並ぶメインストリート。
店先にちょっと溢れたカラフルな商品陳列台。
そのことではじめて、そこがマツキヨであることがわかる。

・・・

読売新聞5月30日(火)朝刊より

「アメリカでは現在、ほとんどの場所で、屋外に自動販売機を設置することが禁止されています。アメリカ人は日本人のように器用ではないので、醜いものは目に入れず、美しいものだけを選択して見て楽しむことができないからです自動販売機が1台あるだけで、景観全体の美しさが損なわれると考えるのです。(中略)現代人が『我慢』を忘れてしまったように見えるのは、ことによったら、自動販売機の普及と関係があるのかしら。」(『桐谷夫妻の一期一会』より)


・・・

はるか昔、
就職活動をしていた頃、
とあるテレビ局の一次面接で
「どんな番組をつくりたいか」という超・基本的な質問をうけた。

私の答えは、たしかこんな感じだった。
「カメラがただ見たままを、写しっぱなしにして、旅をしたり、知らない土地を移動する番組。」

「ナレーションも音楽もなく」
とも言った気がする。

面接を終えて、すぐに後悔をしたようにおぼえている。
おそらく他の就職希望者はみな、
放送作家ばりの斬新なバラエティー番組の企画だったり
ジャーナリストの卵らしく使命感に満ちた報道番組だったりを
提案していることだろう。
少なくとも、学生らしく「世の中に影響を与えてやろう」というエネルギーに満ちた企画を
ぶつけていることだろう。

それなのに、私の回答はといえば
深夜未明のNHKで、すべての番組が終わったあとに
地味に放映されている『映像散歩』のような企画じゃあないか。。。

実際、当時から『映像散歩』のような
何の企画意図もない、水のような番組が好きだった。

どこの誰とも知れぬ番組制作者の
「企画」やら「意図」とやらを、むりやり呑み込ませられ嚥下させられる。
そういう
「だれかの意図の過剰さに疲労させられる」要素が
『映像散歩』的な番組には無かったからだと思う。

あのときの自分の答えを(いまさら)解釈してみるなら、
映像と音の両方をもったテレビだからこそ
もっと「バーチャル・リアリティ」的な演出を追求できるはずだと思っていたし、
また「演出しない番組を見られる、という希少価値がもっと求められても良いのでは」との思いもあった。

でも、その面接では
そういった説明は一切しなかった。というかできなかった。
論理的にそう思っていたわけではなく
なんとなく自分が見たいと思っていただけだから。

案の定、面接は落ちた。
いまになって急にそんなことを思い出した。

「相手が求めているものを与える。」
・・・。
私は、まったく社会化していなかった。


・・・

追記:
同じくNHKで『にっぽん清流ワンダフル紀行』という番組もあって、
これもまた、いいんだよねえ。
ビールのつまみに。

投稿者 vacant : 2006年06月07日 17:20 | トラックバック
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