2012年08月02日

永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)より引用


 自分がきのうほんとうに学校に行ったかどうか、確実なことは何もいえないが、今の自分に、きのう学校に行ったという記憶があるとすれば、自分がそういう記憶印象をもっているということだけは確実である。目の前に見えるウサギのぬいぐるみが、ほんとうに見える通りに実在しているかどうか、それは何ともいえないが、そう見えているとすれば、そう見えているという事実だけは疑いえない。アフリカ大陸という大陸がほんとうに存在し、江戸時代という時代がほんとうにあったのかどうか、それは知るよしもないが、しかし、いま自分がそれらの存在を(学校で教えられたり、テレビで見たりして)信じているとすれば、自分がそう信じているというそのことは確かなことだ。
 結局、確かなことは、そういう意味で、自分の心の中のことだけであって、どんなにその外に出ようとしても、「自分がそう思っている」ということの外にはけっして出られない。他人についていえば、自分と同じように何かを思っているように見えても、思っているような振舞いをしているだけかもしれないのだから、他人についていえるすべてのことは、結局のところ、他人がどう思っているかについて自分がどう思っているか、だけである。
 こういう考え方が、そもそも正しいかどうか、あるいはどの程度に正しいか、といったことは、ここでは問題にしない。ここで注意してもらいたいことは、次のようなことだ。以上のような議論は、自分だけでなく、そのままひっくり返して、他人についても当てはまる、ということである。つまり、右の二つの段落で使われた「自分」という表現は、実は、自分にとっての「自分」だけでなく、他人にとっての「自分」のことも意味していた、ということである。少しむずかしく言えば、任意の主観を指している、といってもいい。
 そんなバカな! と思う人がいるかもしれない。そもそも認識論的な懐疑論にもとづく独我論は、自分にとっての「自分」のことはわかるけれど、他人にとっての「自分」のことなんかわからない、という趣旨だったはずなのに、今のような解釈では、他人にとっての自分のこともわかっていることになってしまう、というわけだ。別の言い方をするなら、この独我論にしたがえば、そもそも他人に心があるかどうかさえわからないはずなのに、今のような解釈では、他人に心があることがあらかじめ前提にされてしまっている、というわけである。
 でも、この反論はまちがっている。認識論的な独我論とは、ある一つの心(もしそういうものがあるとすれば)にとって、その外部にあるものの存在は(他の心の存在をふくめて)認識できない、という一般論にすぎない。少なくともその主張を額面どおりにうけとれば、それ以上のことは言っていない。その「ある一つの心」を「この私のこの心」と解釈しなければならない理由は、この独我論そのものにはないのだ。
 だから、「ある一つの心」を「この私のこの心」と解釈したとしても、もし心をもつ者がほかにもいるとすれば、そいつにかんしてもこの種の独我論は妥当する、ということは初めから前提されている。現実に居る他人たちがそうであるかどうかはわからないけれど、もし自分と同じように心をもつ者がいるとすれば、つまり自分と同じ種類の他の者がいるとすれば、そいつにもこの種の独我論が平等にあてはまることは、決まっているのだ。その意味で、この独我論は、だれにでもあてはまる普遍的な独我論なのである。
 普遍的な独我論? どうしてそんなものが独我論といえるのか、と思われるかもしれない。ところが、哲学の歴史において「独我論」とされてきたのは、ほぼ例外なく、この普遍的な独我論だった。哲学の勉強をはじめたころ、ぼくはそのことが不思議でならなかった。でも、もっと不思議なことは、思い起こしてみれば、ぼく自身だって自分の問題の解が成り立たないということこそが、まさに問題の始まりであったはずなのに、その問題に普遍的な独我論で答えてしまうとは、いったいどうしたことだろう。
 その答えは、多分、もともとの問題がものすごくあつかいにくいので、ぼく自身も、哲学史上に名を残すような哲学者たちも、自分のほんとうの問題を誤解してしまったことにある、とぼくは思っている。
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少しむずかしい話になるが、そもそも「他人の心の中のことはわからない」という命題は事実を語る命題ではない。そうではなく、「他人」という概念の本質を解明している命題なのである。つまり、ある人がどんな心理的事実を持ったとしても、それを他人の心理状態を直接感じたこととは認めない、ということが「他人」という概念の中核を形成しているのだ。だから、言ってみれば、これは事実の問題ではなく定義の問題なのである。あなたの感じる怒りは、定義によって、あなたの怒りなのであって、だから当然、どんな状況を想定しても、他人の怒りであることはできない。
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 ほんとうの問題、ほんとうの不思議さは、他人の心の中がのぞき込めない、なんてことにあるのではない。たとえのぞき込めたとしても、問題は増えも減りもしない。ほんとうの不思議さは、ただ、ぼくとぼく以外の人のあり方がこんなにも根本的に違っていること、そしてそれなのに、これほど違うものが一括してたとえば「人間」と呼ばれること、にあるのだ。
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 このような問題、このような不思議さは、ぼくという例外的なものが存在するという事実から来るのであって、他人の心が見通せないとか、それだから他人の心は存在するかどうかわからない、といったところから来るのではない。そんなことにはかかわりのない、もっと根本的な不思議さなのだ。認識論的な懐疑論にもとづく独我論は、正しいか否かという以前に、そもそも問題の意味を取りちがえている。自分が存在することの不思議さの意味を取りちがえている。
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永井均がぼくであったことによって彼につけ加わった それ こそが何よりも大切なものであるはずなのに、その何よりも大切な 
 それ が何であるかがわからないのだ。それはいわゆる自我とか主体とかいった、誰もが持つ一般的なものであるはずはない。それはいったい何なのだ?
 ぼくのほんとうの問題はこれであった。ぼくは、他人たちとはぜんぜん似ていない「ぼく」というものの存在に驚嘆したのだ。しかし、その「ぼく」とはいったい何だろうか。ぼくと他人たちとの根本的なちがいはいったいどこにあるのか、と考えているうちに、問題が作文型の、認識論的独我論の方向へ、ずらされてしまったのだと思う。いわゆる独我論的傾向を持つ哲学思想は、みんなそうなのではなかろうか。哲学の勉強をはじめたとき、ぼくは最初はそういうものに魅力を感じたが、結局はだまされなかった。その理由はかんたんで、ぼくは自分自身の〈子ども〉の問いに固執せざるをえなかったからである。認識論的独我論は、根底にある本物の独我論をおおい隠すための、にせの独我論なのだ!
 
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 ヒュームという十八世紀のイギリスの哲学者は、こんなことを言った。「私が私自身の中にどんなに深く反省意識を向けても、発見できるのは、うれしいとか悲しいとか、痛いとかかゆいとか、悩みとか希望とか、記憶とか予想とか思考とか想像とか、とにかくそういった個別的な心理現象であって、それら以外に自分自身なんてものは発見できない」と。つまりヒュームは、どんなによーく見てみても自分なんてものは見つからない、だから、そんなものはないんだ、と主張したわけだ。
 ヒュームがやっていることは、水中で水を探したり、空中で空気を探したりすることに似ている。こんなやり方で、たとえ何が見つかったとしても、それはぼくがその本質を見きわめたいと思った「ぼく」の存在とは、ぜんぜん関係ない。それなのに、驚いたことには、ヒュームが属するイギリス経験論もそうだが、カント、フィヒテなどのドイツ観念論も、フッサールらの現象学も、哲学のすべての流派が、みんなこんなやり方で「自我」が存在するかを問題にし、問題はそれに尽きると考えているらしいのだ。
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 ぼくの問題はそうではなかった。ぼくの問題は、たとえばA、B、C、D、四人の子どもがいる(かりに四人とも男の子だとする)とき、ぼくがBであって、AやCやDではないことにあった。Bであるぼくが反省意識によって自我を発見できるか、なんてことはどうでもよかった。もしそんな自我なんてものがあるなら、他人にもあるだろう。そうなればまた、ぼくの自我と他人の自我のちが(つまりぼくの自我の特別さ)が問題になる。その特別さは「ぼくの自我」の「自我」の方にあるのではなく「ぼくの」の方にあるはずだ。その「ぼく」とはいったい何なのだ? この問いにふたたび「自我」を持ち出して答えることは、もうできない。ほんとうの問題がこっちにあることはまちがいない。とぼくは思った。今も思っている。どうしてみんな、この問題を考えていないのだろう?
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 でも、そんなことをいっても、ほかの人たちだってみんな、それと同じ意味で、それぞれ特別な「ぼく」なんじゃないか。と、こう思われるかもしれない。でも、そうじゃない。ぼくがぼくであるのと同じ意味で、かれらはそれぞれ「ぼく」であることはできない。だってそうじゃないか。ぼくがぼくであるという特別な意味でのぼくが、この世にいない場合でも、かれらはみんなそれぞれ「ぼく」である。そのときいないものこそが、ほんとうの意味でのぼくなのだ。これから先、必要な場合、この意味でのぼくを〈ぼく〉と書くことにしよう。つまり、ぼくの問題は、「ぼく」とは何だろうということではなくて、〈ぼく〉とは何だろうということだったのだ。それは、自己意識とか自我とかいった問題とは、別の問題なのだ。

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 古代ギリシャから現代にいたる、世の中で哲学であるとされている哲学を「哲学」と書き、その「哲学」に触れる以前の、自分自身の子どもの哲学を〈哲学〉と書くことにしよう。
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 〈哲学〉とつながらない「哲学」は、もはや「哲学」でさえなく、思想(thought=すでに考えられてしまったもの)の陳列棚にすぎない。その陳列棚をながめて思想の優勝劣敗を論じる品評会を開いたり、気にいった一つを買い取って、以後それを携えて生きていくことほど、反哲学的な行為はない。それなのに、すべての哲学者が思想家(=思想を作った人)であるかのように見えるのはなぜか。それは、人間が生き続け、考え続けることができない存在だからにすぎない。ある時点で切断された思考は思想に、つまり哲学することと無縁な人の鑑賞物に、変わるのだ。生前から思想家(=思想を作ろうとしている人)であったような哲学者などはいない。
 話をもどそう。はじめてウィトゲンシュタインに出会ったとき、ぼくがどんなに驚いたかは、別のところにも書いたので、ここでは触れない。彼がぼくよりはるかに先を進んでいたというのではない。でも、確実に一歩先を進んでいた。この問題についてぼくより先を歩いているひとがいるということを知ってぼくは驚嘆した。
 彼は、ぼくが考えていた問題が、ほんとうのところは言葉で表現できないということ、表現できたときにはにせものの問題になるということ、の意味を考え抜いていた。だが、それが言葉で表現できないということを言葉で表現することほど、逆説的なことはない。ぼくは、たとえば中期ウィトゲンシュタインの次のような章句に、衝撃を受けた。

  ぼくはこう言いたい。「正直に言えば、ぼくにはほかのだれにもない何かがあると言わざるをえない」と。——でも、その「ぼく」ってだれだい? くそっ。正しい表現では表せないけど、何かがあるんだ。ぼくの私的体験の世界があって、それにはすごく重要な意味で同類というものがいない、ということを君だって否定はしないだろう。——でも、君はそれがたまたま同類を持たないと言っているのではなくて、その文法上の位置が同類を持たない位置にあると言っているんだよ。

 この「文法上の位置」について話し始めると、長い長い説明が必要なので、ここではやめておく。結論だけ言えば、ウィトゲンシュタインはここで、独我論を語ろうとしても「その文法上の位置が同類を持たない位置にある」ものしか語れず、けっして「たまたま同類を持たない」ものについては語れない、と言っているのだ。
 ぼくは、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念を、中期の彼がこの問題を徹底的に考え抜いた結論として理解した(そして、前期ウィトゲンシュタインの「独我論」概念を、最初期の彼がこの問題を中途半端に考えた結論として理解した)。そんな理解をしているのは、世界中でもたぶんぼく一人だろうけれど、ぼくにはそうとしか考えられない。

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 「言語ゲーム」という着想を得たのと同じ時期に、ウィトゲンシュタインはこんなことを書いている。

  私は私の独我論を「私に見えるものだけがほんとうに見えるものだ」という言い方で表現することができる。そこでこう言いたくなる。「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味していない。でも、私がたまたま今、事実としてL・ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語はL・ウィトゲンシュタインを意味すると理解するとしても、それで不都合はない」と。

 しかし、彼はこうもつけ加えている。「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、だれも私が言うことを理解できないのでなければならない、ということだ。他人は私がほんとうに言わんとすることを理解できてはならない、という点が本質的なのだ」。
 ウィトゲンシュタインのこのような発言は、固有名で指される個人と脱人格的自我とのちがいを述べたものとして理解されることが多い。でも、それはちがう。これは、独在的思考の無限の読み換えについて述べたものでなければならない。
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つまり、独在的思考が普遍化されることの拒絶を、われわれの世界の中で、言語で表現するためには、どこまでいっても、固有名(に類するもの)の力にたよらざるをえないのだ。「L・ウィトゲンシュタインを意味すると理解するとしても、それで不都合はない」とは、そういうことだ。もしそれを否定すれば、独我論はふたたび普遍化されるのだから。それにもかかわらず、そのとき同時に「他人は私がほんとうに言わんとすることを理解できてはならない」のである。
 それが「理解できてはならない」ということが言語ゲームというものの本質だろう。だから、われわれのおこなっている言語ゲームの中で、ぼくがこれまで伝えようとしてきた〈奇跡〉は、ほんとうはけっして伝えられないのだ。B(永井均)に言葉で語れる何をつけ加えても、Bは〈ぼく〉にはならない。そして実は〈ぼく〉という言いかたでさえも、同じなのだ。われわれの言語ゲームの、つまりわれわれの世界の、本質からしてそうなのだ。その世界にはすべてのものがあるが、すべての物種であるただひとつの〈奇跡〉だけはない。ウィトゲンシュタインがめざした「独我論の対極にある哲学」とは、実在論の哲学ではなく、言語ゲームの哲学だったのである。
 後期ウィトゲンシュタインを読む者は、「言語ゲーム」の哲学において何が断念されているかを読まねばならない。この断念がどんなに驚くべきものかは、最初の〈子ども〉の驚きを共有した者にしか感じとれないかもしれないけれど。

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 哲学の視点から見ると、世の中で通用している常識的なものの考え方には、上げ底があるように見える。たとえばぼくの哲学から見ると、世間の常識っは、この本でこれまで論じてきたような問題を飛び越して、世の中を「個人と社会」とか「自己と他者」とか「主観と客観」という観点から見てすましているし、これから論じようと思う問題を無視して、「よいことをすべきで、悪いことはすべきでない」という前提に立って平気でいる。
 つまり哲学とは、他の人が上げ底など見ないところにそれを見てしまった者が、自分自身を納得させるためにそれを埋めていこうとする努力なのである。だから、哲学の問いがみんなに理解される公共的な問いになる可能性なんてありえない。なぜって、その問いが問われないことによって世の中のふつうの生活が成り立っているのだから。そして、もし上げ底がきっちりと埋まってしまえば、自分にとっての哲学はそこで終わる。そのとき、問題は消滅し、はじめてふつうの人(そんな問題ははじめから持たなかった人)と同じスタートラインに立てることになるのだ。

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大人は子どもの問いの意味をけっして理解しないが、青年は子どもの問いの意味を誤解する。青年こそ子どもの真の敵なのだ。子どもの立場からみれば、青年の哲学ほど不純なものはない。大人が上げ底生活に安住する生き物だとすれば、青年とは自分なりの底上げのしかたでその上げ底に達することを望む生き物だといえる。人生の底上げのために、青年はときに自分の〈子ども〉の問いを利用する。ちょうど哲学者が哲学し終わった後で自分の哲学を誤解するときのように。
 青年は存在の問題を意味や価値で解こうとし、大人は価値の世界の内部で価値の調整をしようとする。彼らにできないことは、意味や価値を存在へ返還することだ。価値とは、そうであるべきこと・そうであってほしいことであり、善いことをふくむ意味での好いことである。存在とは、事実そうであることだ。そして、価値を存在に返還するとは、価値もまた存在の一形態にすぎないことを自覚することだ。青年と大人にはそれができない。
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 大人と青年は観念論者(イデアリスト)だ。彼らは観念の世界に安住する上げ底生活者(ニヒリスト)なのだ。青年とは大人の上げ底生活(ニヒリズム)を攻撃する底上げ待望者(ニヒリスト)にすぎない。老人と子どもは実在論者(リアリスト)だ。彼らは、価値を存在へ返還せざるをえない底なし存在(リアリスト)なのだ。なぜなら価値とは、子どもにとっては、身につけるべき事実にすぎないし、老人にとっては、身をもぎはなすべき事実にすぎないからだ。子どもはまだ存在の世界から価値をながめており、老人はもう価値の世界を出て勝ち全体を存在に返還せざるをえなくなっているのだから。
 大人と青年は、自分たちと子どもとの対立を、つねに大人と青年の対立に読み変えてしまう。彼らが「子ども」というとき、それはつねに〈青年〉を意味している。彼らには〈子ども〉というものが存在していること自体が理解できない。
 子どもの立場からみれば、青年と大人の対立ほどつまらないものはない。世の中ではこの構図が何度も何度もくりかえされ、人々はそこに何か根本的な対立があるかのように思い込まされている。なんにもありはしないのだ。青年なんて大人の前段階にすぎないし、大人なんてうまく偽装した青年にすぎないのだから。
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 〈子ども〉の驚きから発した数々の独特な思考を、青年や大人は自分に都合よくかすめ取って、(それぞれの意味で)よく生きるための知恵として利用してきた。それを不当とする理由はない。哲学はずっとそういう利用のされかたをされてきたのだし、そのことによって世の中で意味をもち、生きながらえてきたのだから。でも、それは、ほんとうはちがうのだ。
 ぼくはこの本を、そんなふうに哲学を利用しようとするひとたちのために書いたのではない。自分自身の〈子ども〉の驚きから出発して、みずから哲学をしようとするひと、せざるをえないひとのために書いたのだ。


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