2006年08月30日

ERNESTO NETO
エルネスト・ネト 展

小山登美夫ギャラリー2006年8月1日~26日
ギャラリー小柳2006年8月1日~31日
(同時開催)


■触る悦び

8月26日の土曜日は、
「エルネスト・ネト展」を見に
清澄と銀座の2つのギャラリーを巡った。

エルネスト・ネトのことは、
何も知らないで、見に行った。

エルネスト・ネトは、「触れるインスタレーション」である。

作品の多くは、
例えばこんな感じ。
メッシュカバーのような素材でできたフクロに
ごく小さな発泡スチロール玉がたくさん詰めこまれており、
それが、小さなサンドバックのように
天井から吊り下げられている。
ちょうどストッキングの足先のほうにだけスチロール玉が詰められて
天井からのびのびにぶら下がっている、そんな感じ。

状態としては、
これは、
まさに「そばがらのマクラ」!

それが、さわれる。

作品によっては、
スチロール玉の代わりに
まさにソバ殻や、ターメリク(?)やシナモンなどのスパイスが入っていたり、

スチロール玉の詰められ方も
固めの作品があったり、柔らかめのがあったりする。
(まさに、固めのマクラがお好みですか、柔らかめですか、って感じ。)

そのほか、
お尻に敷けるサブトン状の作品や、
まるで無印良品の「体にフィットするソファのように
全身をあずけられる作品、

お人形くらいのサイズで抽象的なカタチをした
ソバガラくん(?)たちもいる。
床がテンピュールでできた部屋ごとインスタレーションってのもあったな。

それらがすべて、
自由に触れるだなんて。
なんという悦び!!

・・・

ふだん美術館で作品を見ていて、
「さわれない」ということは、
実はとってもストレスなことである。

だって、見るだけしかできないんですよ。
いくらそれを凝視しても、
それを触ることはできないんですよ!

イサム・ノグチ展のときも、こんな風に書いた。

そのつるつるとざらざらのコントラストが、
見るものの触覚をやけに刺激するのだ。

(これも一種の「共感覚」というのだろうか。)

美術館の監視員がいなければ、心ゆくまで撫でまわしていたことだろう。

・・・

むかしある本に書いてあった。
(バークリだったかな。)
「見る」ことは、「触る」ことの代替だと。

野生動物は
とおくの獲物や天敵を見ることで、実際に押さえつけたり噛み付かれたりすることなく
その体験を予知することができ、
断崖絶壁の存在を、実際に落ちて体験することなく、(見るという代替体験をすることで)
断崖からの落下を回避できる。

まあ、そんな喩えを書かなくても、
たとえば
「なでまわすように見る」とか「視姦」とかのステキな日本語をみれば
一目瞭然なことですよね。

・・・

これが、ロダンの彫刻です。

これが、マチスの彫刻です。

ほほーぅ、なんて四方八方の角度から、ながめまわしたりするけれど、

本当は、さわりたいんですよ!!

だって、

たとえ、いま自分が美術館に居たって、

たとえ、ホンモノの彫刻作品に囲まれていたって、

たとえ、鼻先がついてしまいそうな距離まで近づいたって、

たとえ、1時間その作品を凝視したって、

さわれなければ、

パソコンのモニタで見てるのと

何が違うといえるだろう。

たとえ、いま自分が美術館にいるからといって、

それが「バーチャルな体験」ではないと、誰に証明できるだろう?

(ほんとうに、そう実感することがよくある。)

その作品が、本当に存在すると、誰に証明できるだろう?

その作品が、(例えば)ホログラムではないと、誰に証明できるだろう?

・・・

だから、

エルネスト・ネトさんはエライ!

というかキモチイイ。

尊敬します。

森のなかで、大きな樹木を見ると、つい、手を回して抱きしめてしまうように、

私はしばらくネトの作品に抱きついたままでいた。


(そういえば、
ギャラリー小柳で、数百万の作品、ひとつSOLD OUTになってたな。

私も、ほしい。)


投稿者 vacant : 2006年08月30日 19:09 | トラックバック
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