2007年08月13日

Hussein_Chalayan_AfterHours.jpg


『スキン+ボーンズ - 1980年代以降の建築とファッション』展

2007年06月06日 ~ 2007年08月13日
国立新美術館


思い立って、最終日にすべりこんだ。

これが映画なら、見逃してもDVDでいつでも見れるけど、
美術展はそうはいかない。

二度と体験できない。
映画より、よっぽどレアなのだ。

・・・

ファッションにも、建築にも、門外漢ゆえ
その分、見るものすべてが新鮮で
とても刺激的な展覧会だった。

まず概要は、展覧会のホームページから引用させてもらいマス。。。

 「建築とファッションは、人類の誕生以来、人間の身体を守るシェルターとしての本質を共有しています。また両者は、社会的・個人的あるいは文化的なアイデンティティーの表出としての役割も担ってきました。そういった共通点があるにもかかわらず、建築とファッションは、用途やスケール、素材が異なることから、これまでほとんど同じ俎上に載せて語られることはありませんでした。

 しかし、1980年代以降、両者は急激に接近し、お互いを刺激しあっているように見受けられます。それは、この頃から両分野において、それ以前のものとは完全に異なる新しい形態をとる作品が、つぎつぎと誕生したことにも見てとれます。(中略)

 本展覧会は、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)で開催されたものを、国立新美術館が日本向けにアレンジしたものです。 」


ふーむ、たしかに。

どちらも同じように、「人体を包むもの」であり
「身を守る」機能から発生したものだけど、

それだけでは飽き足らず、

他人と「差別化」するために着飾ってみたり
「自己表現」したり、

民族や階級を表現する
「記号・象徴・シンボル」となったり、

忘れようにも忘られぬ
魂に染みこんだ「土着の文化」になったり
するわけだ。

いいところに目をつけた。
すごいぞ。
ロサンゼルス現代美術館(MOCA)!

・・・

会場に入って、いきなり四発パンチをくらって

なかなか先に進めない。


一発め) フセイン・チャラヤン 《ビトウィーン》コレクション1998S/S

ショーの映像。20分以上あったが、なぜか見てしまった。

例えば、腕のための袖がなく腕が胴体と一緒に包まれ、手首から先だけが顔をだせる服。
例えば、胴体の両脇に、ぱっくりと長いスリット。つまり肩から腰までの楕円の穴。
例えば、床にすりそうなほど長い筒袖のシャツ。袖だけが長い。
例えば、アタマに黒い板。
例えば、顔の周りに、四角い鏡のような板。

そして最後に、
顔はイスラム女性のように覆っているのに、カラダは全裸、という女性が出てきた。
そのあとに4人が続き、
ひとりづつ、覆う面積がふえていく。
二人目は下半身まるだし。
三人目はミニスカート。五人目で、全身が黒く覆われる。

・・・

二発め) アレキサンダー・マックイーン 《カローデンの未亡人たち》コレクション2006-7A/W

これもショーの映像(と現物)。

古い板張りの床を
冷酷に、気難しく、ヒールを鳴らして歩く
極細の未亡人たちの衣装に、
心ならずも萌えてしまった・・・。
(本題と関係ないが・・・。)

最後に中央の透明なピラミッドに
ホログラムで、風に衣装を舞わせる女性が登場。

・・・

三発目) またもフセイン・チャラヤン 《Afterwords》コレクション 2000-01A/W

これも映像(と現物)。

木製ソファーの布カバーが、服に変身。
木製ソファー本体は、折りたたんでトランク型になる。
木製の丸テーブルは、バウムクーヘンのように同心円のパーツになり、Aラインのスカートになる。

亡命時に服になって運び出せる家具、というテーマなのだとか。

・・・

四発め) ヴィクター&ロルフ 《ロシアン・ドール》コレクション1999-2000A/W

これもショーの映像と現物。

これはすごい。

丸い回転台に載せられた一人のベリーショートの金髪女性。
彼女は、もはやマネキン人形の役割。

出てきたときは、
穀物でも入ってそうな、粗編みの布袋のようなインナー姿。

そのあと、ヴィクターとロルフとおぼしき
二人の男性が、
彼女をどんどん着付けていく。

一段階済むごとに
回転台がゆっくり一周し、
着付けの成果がさらされる。

ただし、これは着せ替えではなく、
「重ね着の連続」なのだ。

しだいに、彼女の服は、
装甲を厚くしてゆき、
彼女の肩はいかつく膨れ上がっていく。

そうして最後に、
彼女は、(まるでアメリカ先住民の棲家のような)
円錐状のふ厚い布に、
包み込まれてしまう。

滑稽なほどに小さな頭と顔だけを出して。
なんてユニークなアイデア。
(そしてまた萌えてしまった・・・。)

・・・

と、ここまでで早くも四発やられてしまったので、

ほんのすこしだけペースを上げて
しかし解説なんかもしっかり読みながら、
見た。
先はとても長かった。

そうね・・・。
SANAAも
伊東豊雄も
ヘルツォーク&ド・ムーロンも
すごいんだよね。

そうか・・・。
ジュンヤ・ワタナベ
川久保玲のパタンナー出身か。

へえ・・・。
ベルギーのファッション界は
川久保玲以降の日本の影響下にあるとのこと。

しかし・・・、
やっぱりファッションも建築も
知らない人の名前が
やたらに登場。
世界は広いス・・・。

あれ・・・、
「FINAL HOME」津村耕祐は、
出品されてないの?・・・。

・・・

後半に、コムデギャルソンのある服が目に留まった。

《ボディ・ミーツ・ドレス、ドレス・ミーツ・ボディ》コレクション1997S/S

前になにかで見た気がする・・・。

服のいろんなところが、

まるで妊婦のお腹のように

不思議に(肉感的に、かわいく、極端に)盛り上がっている。

そんな服。

それを見ながら、急に思った。

人は

着られればいい

住めればそれでいい

ということでは飽き足らず

服飾によって

(こんな、妊婦のお腹のように)

身体の一部を変形させてまで

個を

性を

所属集団を

表現したい

アピールしたい

工夫したい

と思わずにいられない

生物なのだなぁ。

と。

・・・

で、

一見ハナシは変わって、『世界の車窓から』。

最近オランダからベルギーを走っている。


で、オランダの駅舎建築が映るのだが、

たいして大きくもない町の

なんてことのない駅のはずなのに

ちゃんと、すてきなデザインの駅舎になっている。

どれも伝統と、それぞれの個性を

たずさえて。


ひるがえって、

日本の駅舎。

住めればいい。

機能すればいい。

金がかからなければいい。

文句がでなければそれでいい。

そんな臭いがプンプンする

ベージュの箱。

・・・

川久保玲の《ボディ・ミーツ・ドレス、ドレス・ミーツ・ボディ》を見て思った。

そういう

「装飾」や「工夫」

(つまりはデザイン)をする

センスというものは

人間の

生物としての

サヴァイヴァル能力といえないだろうか。

正確に言えば

サヴァイヴする道すじを、探知するセンス(感覚)。

自己をアピールし

性を表現し

集団を峻別し、保持する。

そんな

生存本能や

種の保存本能。


装飾を工夫するセンス、

デザインするセンス、

それは、生物として生き残るセンス。

といえないか。

ならば、退屈で反吐が出るベージュの箱しかつくれない

民族は

やがて、どうなってしまうのだろうか。

・・・

展覧会のエンディングは、

もういちどヴィクター&ロルフだ。

《非物質性ばんざい、あるいはブルースクリーン》コレクション2002-03A/W

モデルたちのブルーの洋服に

現代都市のさまざまな風景が

クロマキー合成されて、投影されている。

これが未来の

個と

性の

表現。


投稿者 vacant : 2007年08月13日 23:12 | トラックバック
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