2011年10月28日

「若者の嗜好が尊重されている。
 若者は、自分の好きな方向が認められる、と思ってしまっている。
 大人は、だれもそんなことは認めていない。ただ、若者文化というエリアを作れば、より儲かるだろうと、そういうものを売ったにすぎない。若者でなくなったら、次のエリアの文化に入って別の金の使い方をしてもらいたい、と要請してくるばかりだ。」

「かつては集団で営まれていたものを、分解すれば、それは商品の買い手はどんと多くなる。つまり商品は売れる。
 具体的に言えば、昭和の昔は、テレビも電話も、家庭に一つあれば事足りていた。」

「これをテレビ一人一台ずつ、電話も一人一台ずつ売れば、爆発的に市場が広がるではないか、と考えて、それが実行されたら、そりゃ経済は拡張しますよ。でもそれを売り切ったら停滞する。そんなレベルの話を景気不景気で語ってもしかたがない。」

「個人が個人として尊重されていると錯覚できる世の中になった。
 それは、あくまで錯覚である。個人個人の自由裁量のエリアは広がったかもしれないが、それはどこかほかの自由な部分を削って、そこに当てているだけだ。家族を解体すれば、さしあたっての鬱陶しさはなくなるが、家族が持っていた本来の社会的機能は何かで補填せざるをえなくなるわけで、そんなものがすぐに用意されるわけがない。
 落ち着いて考えればわかるが、個人を尊重する体を装って、いろんなものを個人ユースにして多くの物品やサービスを売っているのが、社会的な発展だったり、経済的な発展につながったりするものであるわけがない。」

「分割は発展ではない。」

「個が完全に尊重される社会では、子供は増えない。ものすごく大勢の子供がいるならば、そこはそれで窮屈で集団としての生活を余儀なくされるわけで、個の尊重は少子化を進めていくばかりである。」

「社会が貧乏になり、集団への帰属が高まると、少子化は止まる。でもそんなのは人にコントロールできることではない。」

「個が尊重されていくにつれ、なにかしら、社会的な参加をしていないと不安になる。」

「となると、いきなり『大きな正義』に加担してしまう。町内清掃のボランティアに行くか、でなければ、地球環境を考える、ということになってしまう。正義に身体性が失われている。」

「おれたちの公共性は、あれぐらいなものなのだ。個人の生活が豊かになってるんだから、ゆっくりと沈んでいくのはしかたがないだろう、とおもいきれるかどうかである。人間社会は、どっちかを取るようにしかできていないのだ。」


堀井憲一郎『いつだって大変な時代』(講談社現代新書)より引用


投稿者 vacant : 2011年10月28日 18:12 | トラックバック
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