April 02, 2006

『重大な障害を引き起こすかもしれない、潜在的な危険』 (第2回)

十年前の夏の日、私はひとりで店にいた。
新宿にある薄暗く湿度の高いバーカウンターの前に座っている。
周囲から聞こえてくるのは、英語圏の人々の英語、英語圏ではない人々の訛りの強い英語と、テレビから流れるサッカー中継の歓声だった。

私よりもいくつか若く見えるバーテンダーは、注文を受け付けた振りをするが、脳内伝票にメモし損ねる、もしくは見当違いの品を運び、やや不穏な空気を漂わせ始めている。

ノイズだらけでまともに表示されないブラウン管には、白人が多数を占めるサッカークラブチームのユニフォームが二色ばかり見え、店内にいる客のほとんどが眺めていたが、試合の経過には興味が無いらしく、画面上に映る選手の国籍を話題にしてもさっぱり噛み合わない。

周囲にいる日本以外の国籍を持つ人々は、煙草の一本も吸わずに酒を飲んでいる。
赤い顔に縮れた頭髪を載せビールしか飲まないアイリッシュの男。
ミリ単位で仕立てを指示したスーツを着込むゲイのアフロアメリカン。
母親ほど離れた中年女性と罵り合ってるラテン系の男。

自国語が通用しない海外で生活するのはどんな気分だろう。

私はブリュッセルで暮らすひとりの娼婦を思い浮かべる。
女は穴だらけの腕や脚を隠そうともせず、娘の養育費を身体ひとつで稼ごうとしている。
生活保護は受けていない。いや、受けられないのだ。
女の技巧は極めて稚拙で、仕事に誇りが持てないばかりでなく、労働自体を嫌う為に固定客も付かず、ボスから搾取され続ける日々を過ごしている。
勤続年数と共に発展性と向上心を失い、肉塊としての扱いを受け続ける。
娘にはもう数年も会っていない。

私が三杯目のブナハーブンを頼むと、バーテンダーはオレンジのラベルの貼られた緑色のボトルを指差し、空であることを告げている。それじゃない、と首を振る。

支払を済ませて帰ろうと立ち上がると、ひとりの男が視界に入る。
日本人と思われる男は、私のふたつ向こうに不自然な体勢で座ると、ハイネケンという口の動きをする。
難聴のはずのバーテンダーは小さく頷くとビアサーバーからジョッキへと注文どおりの品を注いだ。

「もう帰るのか?」
ハイネケンの男は私に顔が見えるようにとスツールを回転させながら、器用にも泡が溢れそうなジョッキを受け取る。

「ああ、明日早いんだ」
「そうか。久し振りに戻っても座り直す気は無いか」

そうだな、と私は男の隣には座らず、立ち上がった椅子に座り直し、男と同じ品を頼んだ。
バーテンダーは「え?」と聞き返すが、男の手振りで同じジョッキが運ばれてきた。

男は、たった今海外から帰ったというSだった。

(續く)

投稿者 yoshimori : April 2, 2006 05:25 PM | トラックバック
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