July 30, 2010

『七月下席(千龝樂)~わらしせいろう』

暑い日が続くのと、食したい物が思い付かないことを理由に、麺類ばかり手繰っている。
朝の冷やし饂飩に始まり、昼には湯を注ぐ即席の中華麺、夕方はひと呼吸置いて焼き系包子(ポーヅ)、夜には厨房へ辛味の追加を依頼した酸辣湯麺、そして深夜には油そばという、何をしたいのか何処に向かっているのか自分が誰なのか甚だ疑問が残る食生活を繰り広げて止まない。

突っ込み不在の恐ろしさを体感せざるを得ない。
爛れた食生活に喧しい物言いなんぞ入らないのが、歪んで曲がった大人の姿なのだ。

更に悲しいことには、日本に生まれていながら、このところ米らしき飯をほぼ口にしていないと感じる。
日々飲んだくれている所為か、米粒を欲しない身体が造られているのだろうか。

今、幼い頃に夢中で頬張った蒸籠飯を懐かしむ。
わっぱ飯とも呼ばれるそれは、木の香りも高く、数え切れないほどの具数の山海の幸が散りばめられ、炊かれたのとはまた異なる蒸した米の色艶と食感、すべては今の食生活からはほど遠い存在である。
がしかし、それは茶漬けに始まる少年が憧れる大人の味の集大成ではなかっただろうか。

取り戻したいのは、かつての憧憬ではなく、胃と脳が直結した食そのものと知るのだ。

(了)

投稿者 yoshimori : July 30, 2010 11:59 PM
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