2005年07月14日

直島で(1)

直島のことは、なにから書き始めたらいいのかわからない。
とにかく、静かな興奮に取り憑かれた。
こんな場所、日本中どこにもない、と思った。

書き始めは、抽象的なことからにしてみよう。

私は毎日、一日中、
眼を開けているあいだはつねにものを見ている。
でもそのとき、
脳の「見る機能」がすべて「眼の前のもの」を見ることに集中しているかというと、
どうもそうじゃない。

普段、私の脳の「見る機能」が
眼の前のものを見ることに割いている労力は、
割合にして7割くらいかもしれない。

残りの3割で、
私は、何か想像のなかの、意識のなかの像に、眼をやっている。

トイレでしゃがみながら
目の前の白い壁にずっと眼を向けているけども、
白い壁のことはほとんど見ていない。

例えば、だれかのしゃべる声が聞こえると、
その人の姿や顔が浮かんだりする。

プラットホームに電車が滑り込んで来るのを見ながら、
同時に、街並と浜辺と誰かの顔とがオーバーラップしたような映像を見ていたりする。

いや、もっと不可解な、模様や色のようなものが浮かんでいる。

眠りのつきはじめに、
ああ眠りに入るなあと自覚しながら
映像が浮かんでくることがあるが、
そんな、脈略無い映像が、昼でも頭の数パーセントを占めていたりする。

今も、こうやって文字を書きながら文字を見ている。
文字の意味を把握する程度には「見て」いるが、
それ以上の力を「見る」ことに注いではいない。

(むしろ言葉からつぎつぎに映像を連想しそれを見ている。)

要は、眼の前のものは、適度にしか「見て」いないのだ。

その比率が、9割1割だったり、7割3割だったり、
古いオーディオアンプの目盛と針のように、
つねに揺れつづけている。

・・・

眼の前にしているものを、見ていないこと。
そのことを、
ジェームス・タレルの作品をきっかけに実感した。

作品の狙いとは
別の方を向いているかもしれないが、
これは、不思議な副作用だった。

投稿者 vacant : 2005年07月14日 18:34 | トラックバック
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