2007年06月13日

Claude_Monet.jpeg

大混雑の国立新美術館。

『大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産』

うかつにも、
NHK新日曜美術館で特集されたあとの
最初の休館日明けだったから。

ふつう休館日は月曜かと思わせておいて
ここは火曜日が休館日だから、
肩すかしをくって
水曜日にくる人、
意外と多かったんじゃないかな。(てゆうか、私です。)

とにかくお腹がすいたので
3階のポール・ボキューズのレストランまで昇ってみる。

(ポール・ボキューズ・・・、知ってる名前だ。
『美味礼賛』で
辻静雄が出会った三ツ星シェフの名前だ

しかし、
みな考えることは一緒で、レストランも長蛇の列・・・。

・・・

今回あらためて

モネはマニアックだと思ったのだが、

なぜかというと、おそらくモネの性癖は

「見えないところが好き」という境地にまで

達していたんじゃないか、と思ったからだ。

それは、例えば

『エトルタの日没』の真逆光の岸壁。

逆光に塗りつぶされた真っ暗な面積のなかに

なにかが見えるような

なにも見えないような。

『サン=タドレスの海岸』も同じ。

モネの声が聞こえてくるようだ。

「ウーン、此処の所、見えねェなァ、たまんねェなァ。」

有名な『日傘の女性』も、

傘の影になった女性の顔は

画家のいる距離からでは、なんだかよく見えない。

(なにしろまわりの外光がまぶしすぎるから。)

『舟遊び』の水面に反射した女性の姿も、

なにしろ水面が深緑色だから、どうしても黒い影のようになってしまう。

そこが

なにも見えない「無」のようであり

そのなかに微かに何かが見えるようであり、

そこの微妙な境界線を見つめながら

画家の心に芽生えた

マニアックな興奮に思いをはせてみる。

風景画を描く

ということは

「見えるものを描く」

という行為だからこそ、

ただ見えるものを描くことに飽き足らなくなったあとには

「見えるか見えないかわからないものを、見る」

というところに、

やりがい、というか興奮を覚えるようになっていくのではないだろうか。

大家、とか、その道のプロ、には

そのような、

ひとつ飛び越えたマニアックさ、というか

好事家のような、というか

性的倒錯のようなところが出てくるんだと思う。

・・・

そんななか、

心のベストテン第1位はこんな絵だった。

『サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会から見たドゥカーレ宮』。

西日を浴びすぎた向こう側が

まぶしすぎて、それでいて

時刻的には、もう光量が足りないせいか

まぶしいのに、逆に輪郭ははっきりせず

とけたように、燃えるような色に、輝いている。

どろどろの蝋細工のように

もう、なんだかわからない。

・・・

そして、『ルーアン大聖堂』の連作だ。

こどものころ

河出書房新社のシリーズ『世界の美術』(座右宝刊行会編 絶版)の

モネの巻の巻末の解説に

このルーアン大聖堂のことが書いてあった。いわく

・・・朝の光のルーアン大聖堂と、夕方の光のルーアン大聖堂はちがう。

何歳のころに読んだのか忘れてしまったが、

当たり前のことに

目を開かされた。

そして今回、

ここにも

「見えるか見えないかわからないものを、見る」という

モネの意志が見えた気がした。

『チャリング・クロス橋』にしても、『国会議事堂』にしてもそう。

その点、

このルーアン大聖堂を

単なる「カラーバリエーション」としか捉えられなかった

ロイ・リキテンスタインの作品は

あまりにも浅い。

時代の流行りだったとはいえ、

あまりにも形骸的で、表面的なものの考え方だ。

ロイ・リキテンスタインは、アホだ。

そうでなければ

物事をわかっていながら知らないふりする不届き者だ。

・・・

今回の展覧会の

新しい試みは、

「モネの遺産―モネと20世紀」と題して、

モネからつながっていると思われる現代美術の作品を

いくつも掲出しているところだ。

(観客のおばあちゃんたちは混乱してたけどね。)

そのなかに、

ウィレム・デ・クーニングの作品があった。

『水』 1970年作 107x80cm  国立国際美術館蔵

うわ、と思った。

これは、見たことがなかった。

例によって、しばらく立ち止まってしまった。

額もいい。

この絵がほしい。

飾りたい。

水色の色のくすみぐあいが

ステレオじゃなくって、

モノラルのレコードから出てくる音みたい。

(そこがヴォルスと似てる。)

サム・フランシスもいいけど、

そこの切なさの種類がちがう。

サム・フランシスは、

切ないくらいに晴れわたった夏休みの空の下で

食べるかき氷みたい。

そしてステレオフォニックだ。


期せずして

たくさんの

現代美術作品を見ることができて、たのしかったけど

あの画家をいれるべきじゃないの?

とも思ったりした。

初期カンディンスキー

スーティン

それから、

未来派のバッラ

・・・

なんの本で読んだのか、

ミッシェル・フーコーを引用しただれかの本を

思い出した。いわく

性的嗜好というものは、

その人に本来備わったものではなく

時代や環境の情報が

その人にそうさせるのである、と。

(・・・あ、『ウェブ人間論』で平野啓一郎が言ってたんだ。)

晩年のモネには

筆致あらく、ほとんど何のモチーフかわからないものもある。

それなのに

モネはOKで、抽象絵画はNGな

おばあちゃんたちの感性は、

フーコーのいう「情報に操作された性的嗜好」

と同じだといえないだろうか。

そしてそのことは、

クーニングやヴォルス、ポロックへ

執着する私にも、

いや私にこそ

言えることなのかもしれない。


投稿者 vacant : 2007年06月13日 20:03 | トラックバック
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