January 04, 2011

『無簧の篳篥(むこうのひちりき)』

さほど混雑もない山手線に乗り込む午前八時
世間は未だ休暇中である一部の輩を世に放ってはいない。

やがて車両は新宿駅へ到着し、通常通りに扉を開けて乗客を吐き出しては受け入れるのだが、発車間際に耳に慣れない吹奏楽器の音が聞こえた気がした。
それまで文庫本に落としていた視線を上げると、目に慣れない物体が目の前を通り過ぎてゆく。

泥酔風の面構えをした年齢不詳な男の曖昧且つ微妙な表情が視界に入り、肌が粟立つのが分かった。
男は人の顔の部位だけが刳り貫かれた熊の頭部を被っているのだ。
その造型や着色は幾分か戯画化されており、山野を徘徊するリアルには程遠いのだが、半端なメルヒェンさ加減が無用な恐怖を醸し出す

それよりも一瞬だけ視界に入った、男の所持する細く長い物体の正体を確認せねばなるまい。
彼の登場前に笛らしき音が聞こえたとしても、それは男の所持品とは限らないのだ。
何故なら実際に吹く姿を見ていないのだから。

間の悪い事に男は赤いコートを脱ぐと座席の端に座り、コートで身体を包み込むように巻くと寝に入ってしまう。
これでは笛か笛以外の何かか目視できない
今は目を閉じて大人しくしてると見えても、ゆくゆくは油断ができない。
笛のようなものはソプラノリコーダー的な大きさだったような気もする。
アルト級になると、鈍器に為り得るかも知れない。
不意に笛攻撃を受けても、膝に置いた鞄で防げるだろう。
しかし、そんな不測の事態が発生した際には柔軟に対処できるだろうか。
取り乱した他の乗客からが我先に逃げようと退路を塞ぐかもしれない。
むざむざとやられるよりも先にやっつけた方がよいだろうか。
戦いにおいてはやはり先制が有利だろう。
攻撃は最大の防御なのだ。
いや、あれに何かを仕掛けるのは全く気が進まないし、むしろ避けたい。
ていうか、このささくれだったきぶんをどうしてくれようか

等等と悶悶としている間に降りるべき駅に到着したので、後は任せたと同じ車両に乗っていた見知らぬ乗客らを心で励まし、揚揚と改札を抜けて既に対岸の火事となった男VS乗客らの行く末を何となく案じ、今はただあの物体が楽器である事を望んで止まないのだ。

(了)

投稿者 yoshimori : January 4, 2011 11:59 PM
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